僕が若手と呼ばれていた頃

谷口和也


 「松島湾ではかつてうまいノリが採れたという。しかし今では、色はよいが硬くてうまくない。何故そうなったのかを考えるためにも、うまいノリとはどのようなものか、みんなで一度味わってみる必要があると思うが、試してみないか」
 この提案は、僕が日本海水研から東北水研へ配置換えとなった昭和51年11月に、大凶作となった松島湾のノリ養殖への対策を立案するために、佐藤重勝所長が会議室に関係者を集めて相談した際になされたものである。そして日本で一番うまいノリは、佐賀県有明海産であると衆議一決した。佐賀県には同県のノリ養殖を確立した恩人ともいうべきノリ研究の第一人者である木下和生さんが在職しておられたので、東北大学の同級生であった海洋部の工藤英郎さんが木下さんとの仲介の労をとられて、日本で一番うまい「一枚100円のノリ」をみんなで食べることになったのである。この会議には、増殖部ばかりか海洋部、資源部の方たちも多数参加され、熱気にあふれていたことを記憶する。何よりも、諸先輩にはノリ養殖を何とかしなければという強い危機感が感じられた。
 研究者は、未熟な場合特に、えてして先達の論文、特に諸外国の論文から問題の所在や方法あるいは考えを学び、対象を換えたり、日本の例に引き写したりしがちである。また、得られた結果にもとづいて自ら考えるよりも、すでに出来上がった法則や理論に合わせようとしがちである。僕がそうであったように、多分。配置換え後すぐこの会議に参加できたことによって、産業研究とは、それを必要とする人たちのために如何に大切であるか、また如何に独創性を発揮しなければならないか、要するに産業研究のプロになる必要があることを、少なくともその雰囲気だけでも感じさせていただいたと思っている。それは、産業であれ、自然であれ、現場に学び、現場から問題意識、作業仮説を得る努力につながっていくのである。そして、自然認識としての科学が技術を介して人間社会に結びつく道筋を理解することになる。一枚100円のノリを食べる試みは、そのための感性をみがくことを教えてくれたのではないかと思っている。当時の未熟であった僕は、そこまでの理解に到達できなかったけれども。
 ともかく一枚100円のノリは、「もう他のノリは食べる気がしないね」というグルメの工藤さんの言葉通りであった。また、色は良いが硬いノリとは、ベタ流しとよばれて外洋の浮流し養殖生産により細胞壁が厚いためと、さらに加工用にと厚く漉いたものが多いためである。しかし、松島湾のノリが本質的にまずいというわけではない、念のため。
 ノリ養殖は、享保年間に東京湾品川沖で始まったように内湾に竹や木材で支柱を立て育苗する方法が一般的であった。しかし、昭和50年代中頃から内湾の支柱柵漁場で特徴的に、全国的に共通してバリカン症などと呼ばれるノリ芽の大量脱落がおこり、内湾での生産が急激に低下していったのである。ノリ芽の大量脱落は、一夜のうちに起こるほど急激な症状なので、主として脱落が想定された時間帯の潮汐周期、気象、大気の状態や水質など環境面から原因究明が行われた。しかし、原因が陸上起源であるとは想定されたものの依然不明のまま内湾支柱柵漁場は大幅に縮小し、浮流し養殖に生産の中心が移って今日に至っている。内湾支柱柵漁場の大幅な縮小は、多くのノリ養殖業者の撤退をともなう痛ましい出来事であった。ノリ芽脱落原因を明らかにする上でも、今一度新たな方法にもとづいてノリの生理学、生態学の研究を本格的に行う必要があると思う。
 佐藤重勝所長は、折にふれて若手研究者を鼓舞し、産業研究者として育てる努力をされた。200海里時代を迎えた昭和53年11月22日から週一回、数回にわたって、佐藤所長と庄司東助さんが講師となって当時出版されたばかりの「明日の日本水産業」を下に、水産業の現状と水産経済、法規に関する勉強会が開かれた。お二人の優れた講師に対して学生は僕一人であったから、僕はお二人の高度な議論にほとんどついていけなかった。しかし、その時のノートを見ると、1)漁業は共有の漁場で、私的な生産力を行使するという「矛盾」を内包している、2)共有で有限の漁場における私的生産の行使は生産者の利害対立によって過当競争となり、資源の枯渇に導く、3)したがって、漁業制度、漁業法は利害の調整として働く、いわば矛盾を緩和するために成り立っている−矛盾を前提とした制度改革=性悪説に立つ強権主義、業種間調整による沖合から遠洋への誘導拡大によって生産力危機を回避、そして過剰化した中小資本漁業を整理する=相対的余剰人口を生み、漁家、農家に還流−沿岸はどうなる?、などと書かれている。正にその通りであると今にして思う。佐藤所長が200海里問題に触れて「同食異卓」を盛んに語っておられた。お二人の講義によって、科学−技術−人間社会を結ぶ道筋に対して人間社会からの関わりを明らかにしていただいた。研究者として重い役割を自覚できたような気がする。
 僕が若手と呼ばれていた頃、何を対象にどのように研究を進めるべきか理解できずに悩み多い日々を過ごしていた頃であるが、東北水研は和気あいあいとした雰囲気で、しかし厳しい相互批判の下に、確固たる基礎研究に裏付けられて産業に対する責任を果たしていたと思う。僕は、そのような雰囲気の中で励まされ、鍛えられた。職場が変わろうともその伝統を継承したいと思っている。
(元 資源増殖部  現 東北大学)

Kaduya Taniguchi

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