解剖室とともに過ごした東北水研での日々

高橋祐一郎


 解剖室・・・・いつから建っていたのか正確には知らない。しかし、杉の入上空からの航空写真が表紙を飾っている昭和44年9月発行の東北水研ニュース第1号には、既にそれらしき建物の存在が確認できるため、増殖棟よりも早く建てられていたことがわかる。きっと、真に資源研究が活発化していた当時の水産研究所のこと、さらなる研究の高度化のために、研究者が直接魚体サンプルを扱うことのできる専用室の必要性が当時のブレイン達から発出され、東北水研が現在の位置に移転する際、建物の配置計画に当初から組み入れられ、本館と同時に竣工したのだろうと想像している。
 この部屋に私が初めて足を踏み入れたのは、浮魚資源第1研究室の業務を行うこととして採用の辞令を受け取った、平成3年4月1日のことであった。この日は翌日から研修を受けることになっていたため、辞令交付後すぐに東京に行くことになっていたが、研究室の主任研究官であった高橋章策氏に、「今後君が多くの時間を過ごすことになる部屋だけは、今日のうちに案内しよう。所内廻りはあとでゆっくりやろう」と言われ、連れていかれたのであった。
 「ここは、サンプリングしてきた魚の測定を行うところだ。資源管理部で最も重要な、最前線の仕事をするところだ」その言葉とともに開けられた扉の向こうには、大きな黒い実験台、広い流し、冷凍庫に冷蔵庫、そして染みついた魚の匂い。それまで、魚体測定どころか、生きた魚介類にさえろくに触れたことがなかった私は、資源研究の世界で自分がやっていけるのかどうか不安で仕方なかったが、この独特の雰囲気が醸し出された部屋でたたずんでいるうちに、何故か心が和らぐような不思議な気分を感じたような覚えがある。
 こうして解剖室デビューを果たした私は、異動するまでの7年間をこの部屋とともに過ごすこととなったのである。
 何の経験もなかった私に、サンプルの処理方法や乗船調査の心得などを教えてくれたのは、高橋氏であった。資源研究のベテランであった同氏は、現場経験に基づく話やかつての先輩が残した業績などの多くを私に語ってくれ、それは後に、私が新人やアルバイトに指導を行っていく上で、大きく役に立った。その一部をここで紹介しよう。
 天秤で魚を測るとき、大抵の場合は、少し大きめの平板を天秤に乗せ、それに魚を乗せて行うことになる。しかしサンマのように、丸く細長いうえに脂が多い魚は、乗せ方が悪いとすぐに滑って転げ落ちてしまう。また、精度の高い天秤を使用すると、測定室内の空気が循環するだけで表示がぶれ、読みとりに時間がかかってしまう。しかし東北水研では、そのようなことに神経を使う必要は全くなく、一日に数百匹のサンプルをも処理しなければならないサンマの漁期の業務も粛々とこなすことができた。なぜなら、同氏をはじめとする過去の先輩方が、現場経験でのアイデアを元にして設計したという、天秤の上皿にぴったりとはまり、かつ内側がカーブしていて魚が転げ落ちないようになっている魚体測定用のアクリル台、サンマの体幅がカバーできる間隔ごとに突起が付けられ、並べたサンプル同士が容易に区別できるサンプル整理板、天秤を風から守る風防などの「魚体測定用便利用品」が実用化されていたからである。その話を聞かされた当初、正直言って私は、確かに便利だけど、こういうものは測定器具のオプションとして売られているだろうに、何でわざわざ設計して作ったのだろうなどと思った。しかし、実際に捜すと、そのような魚体測定を目的とした補助用品など販売されておらず、また、このようなものが無いばかりに魚体測定に苦労しているという他機関の研究者の話が耳に入るようになってきた。私は考えを改め、これら便利用品の重要性と、それを実際に作成してしまう行動力を感服した。
 また、常に刃物、特に包丁の扱いには馴れておけと教えてくれた。当初私は、包丁など“陸上におけるサンプル測定後の処理”にしか使わないと思っていた。しかしその穿った考えが誤っていたことは、初めて同氏とともに行った流し刺網乗船調査の現場において、大量に採集される大型魚を手早くサンプルとして処理するために包丁を手際よく扱わなければならなかったのに、経験のない私にはそれができず、船員の方々の睡眠時間を奪うなど、迷惑をかけてしまったことで認識させられた。
 平成5年3月、多くのことを教えてくれた高橋氏が卒業することとなった。そして、これについて研究室で話し合いをした記憶は無いが、以後の解剖室におけるサンプル管理や測定計画の切り盛りは私が行うことになり、同時に「火元責任者」ともなった。
 この年、かねてから手狭であると考えられていた解剖室隣接の冷凍庫を大型化しようという意見が資源管理部から上がり、所の機械整備要求に載せられることとなった。平成6年、平成7年度の補正予算で設置が認められることを知らされた私は大喜びしたが、そこから先の道は長かった。というのは、大型冷凍庫を建てるには、寸法や冷凍室の温度設定などの細かい部分についてまで、個々に設計が必要となることが後になって分かったからである。そして当時の資源管理部長は、その設計担当を「火元責任者」の私に命じてきた。
 何の知識もなかった私は、パネルの材質や冷凍室の棚の配置など、業者に冷凍庫の仕組みを一から教えてもらうところから始めざるを得なかった。さらに、温度設定や庫内の配置などで、資源管理部内の意見がなかなかまとまらず、膨大な時間がかかり、当時の用度係長に大変迷惑をかけてしまった。
 設計を命じられてから1年後、ようやく新冷凍庫は、庫内面積は旧冷凍庫の3倍、さらに前室及びサンプルの解凍設備を備えるものと決まった。施工は平成8年初頭に開始されることなったが、私は、平成7年12月から国内留学に行ってしまったため、旧冷凍庫の撤去作業も新冷凍庫の建設作業も見ることはできなかった。
 平成8年4月、久しぶりに東北水研に戻ってきた私が解剖室に入ると、設計どおりの新冷凍庫がすでに電源を入れられて稼働していた。「これで今後は、サンプル管理も魚体測定もやりやすくなるぞ」と、思わずこみ上げてきたのを覚えている。
 しかし、私はそれから異動になるまでの2年間、解剖室を満足に活用できなかった。
 室長の異動が早いこの研究室では、私の配属6年目にして、4人目の室長を迎えることとなり、同時に研究室で最も長く在籍することとなった。国内留学の整理もついていない5月のある日、当時の資源管理部長は、サンマ漁業に関する全ての業務計算を私に行うよう命じてきた。私は、身分が研究員であるにもかかわらず、なぜ室長が行うべき業務を引き受けなければならないのか、そもそも引継を受けていないと主張したが、部長は「人事異動のことを私に言われても困る。研究室で最も長く在籍しているのは君となったので、君しかやる人がいない」という言葉を繰り返すのみであった。私はその後も何度か交渉したが、その態度を崩してはくれなかった。
 途方に暮れた私は、資源研究者のOBが揃っている(社)漁業情報サービスセンター(以下センター)に助けを求めた。センターはこの情けない事情を理解してくれ、以来私は、異動するまでずっとお世話になっていた。中でも以下の出来事については、もしセンターの協力が得られなかったら、サンマ研究室は崩壊していただろうと思う。
 サンマの資源計算においては、他の魚種では例を見ないほど緻密な計算フローが、歴代の先輩方の努力の結晶によって既に確立されており、そのフローは、民間の機械集計会社によってプログラム化されていた。そのため、かつての東北水研は、各機関から集約した魚体測定表などをこの機械集計会社に送付すれば、若干の手作業をするだけで、サンマの体長組成やCPUEなどの計算結果を手に入れられるというシステムで、サンマの資源計算を行っていた。
 平成7年、資源対象魚種の計算システムが、センターに設置されたホストコンピュータに各機関が直接アクセスしてデータの入力や計算を行えるシステム(FRESCO)に一斉に移行することになった。そのため、各魚種のいわゆる責任水研は、FRESCO上で動く資源計算のプログラムを作成するため、改めて計算フローを提示する必要が生じた。当然サンマでもその作業が行われ、東北水研は、平成6年あるいは7年にサンマ計算フローを提示していた。
 ところが、これが不完全なものであったため、出来てきた資源計算プログラムは全く使えないものであることが判明した。原因を究明したところ、当時の東北水研が、かつて構築されたフローに関する資料が逸散していたことに気づかず、手許にあった資料に載っていたフローだけでCPUEや体長組成の算出が行われているものと思いこみ、実際に計算が可能かどうかの確認を怠っていたことがわかった。時は平成9年1月、あと2ヶ月で平成8年度の資源計算をしなければならないというのに、機械集計が不能となったこの事態に対応するには、表計算ソフトを使用して人海戦術で手計算を行うしかなかった。そのときセンターは、私を何日間も通い詰めさせてくれただけではなく、入力、集計、計算、打ち出しといった作業にも対応していただいた。そのお陰で、何とか平成8年度の資源計算を乗り切ることができた。
 その後、誤ったプログラムの改修を試みたが、それには一から組み直すに等しいほどの費用がかかることが確実となったため、平成9年度の資源計算もFRESCOを使用することができず、平成8年度同様、手計算で対応しなければならないことになってしまった。そして結局、平成9年度もセンターの全面的な協力なしでは、資源計算を乗り切ることができなかった。多大な協力をいただいた元浮魚資源1研究室長の小坂 淳氏、プログラマーとして派遣されていた関田勝美氏の両名をはじめとするセンターの職員の方々には、心から感謝している。また、このような情けない東北水研の実情を察し、本来東北水研が行うべき作業を引き受けてくれた各県機関の方々には、本当にお世話になった。外部の人に支えられ、私たちが対外的な場を何とか乗りきることができたことを、この場を借りてお礼を申し上げたい。
 こうして、私は平成8年度以降の東北水研での生活のほとんどを、サンマ資源計算システムの復旧に費やすことになった。逸散した資料の捜索、整理、計算フローの構築、各県水産試験場やセンターに対する作業の依頼とその処理で毎日が過ぎていった。解剖室に関して行えたのは、平成9年3月、資源管理部の管理下であった所本館の「プランクトン仔稚魚等実験室」が改修されることになった際に、ホルマリンサンプルは基本的にこの部屋で測定を行い、原則として解剖室で扱わないようにしてほしいという提案を資源管理部内で行い、それを通したことだけだった。魚体測定は滞り気味になり、冷凍庫にはサンマのサンプルがあふれてくるようになっていたが、それらを十分に処理できる時間は、私にはもはやなかった。
 そんな生活を変えられる機会が与えられたのは、平成9年の暮れのことであった。私は悩んだ末、自分の世界を拡げるためにサンマの資源研究を中断し、新しい環境に身を置くことを決意した。
 平成10年3月31日、東北水研の職員として最後の日に見た解剖室は、埃が目立ち、何もかもが薄ぼけて見えた。
 サンマ資源研究の現場を去ってから、すでに1年半余りの時が過ぎた。本所において資源研究を行わなくなった東北水研では、解剖室を物置化する計画すらあったというが、高次生産研究室の努力によってそれは回避され、オキアミなどのサンプル測定に使用されている。「使用頻度は激減したけど、冷凍庫もサンプル保管に活用しているし、測定用便利用品を今も使用しているよ」とのことで、何よりと思う。
 私は今、行政の視点から、かつての仕事を見つめている。水産研究所はまた組織が大きく変わることになろうが、どんな組織になろうとも、資源管理の必要性が薄れていくことはないであろう。そして資源研究の重要性が再認識され、研究体制が名実ともに改良される時が、いつかきっとやってくると信じている。
 解剖室がまた、かつてのように資源研究の最前線となるその日を願ってやまない。
(元 資源管理部  現 農林水産技術会議事務局)

Yuichiro Takahashi

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