期待と思い出と

佐藤祐二


 マイカイや今も沖には未来あり(草田男)
 マイカイとは「ハマナシ」だそうです。
 岩手県種市町のホテルのロビーでこの句を見たとき、20数年過ごした八戸支所周辺の風景が鮮やかに思い出され、同時にこの句のスケールに圧倒される思いが致しました。
 未来を拓く、東北水研の21世紀を象徴する大きな危害を感じますが、どうでしょうか?
 いま、ともすればひっぱくの話題の多い水産の世界で今後の50年と同様な路線をとは、いきますまいが、50年前おそらく何もない東北の天地に、今日の研究所の根を下ろされた先人を思い、若い方々による東北水研のさらなる飛躍と創造を期待するものです。
 以下、思いつくまま、私の東北水研生活のいくつかを記し50周年記念誌の断章としたいと思います。
 昭和59年3月に東海区水研(現中央水研)に移るまで、世紀単位(4分の1世紀)で数えられる長い年月を八戸支所で過ごしました。
 入所当所は、支所前の恵比寿浜に掘り抜かれた大きいプールで、底魚類の生態を飼育実験で解明するということで、毎日を胴長をはいてカレイを追い回していました。いまは跡形もありませんが、このプールにはサイドから行動を観察できる(と銘打った)ガラス張りの廊下がありました。しかし何とも中途半端な代物でひと時化来るとガラスが破られ、全部水浸し、虎の子のカレイは逃散という有様で、本当に泣かされました。地元の寄付金も導入した工事とかで成果を見る目も厳しかったのですが、ついに大した成果もないまま、プールの歴史を閉じました。構想が20年位早かったと今でも考えます。
 昭和38年から浮魚資源の研究が始まりました。本所はカツオ・サンマで手一杯だ。東北近海の浮魚資源の研究は焦眉の急だ。ついては八戸支所が底魚研究を縮小して近海浮魚資源を担当しろ(という大変奇妙な)論理で、一転スルメイカやサバ等鰭ものをやることになり、私は主に当時隆盛なサバを受け持ちました。以後、紆余曲折はありましたけれど、関連した国の諸事業をこなしながら連綿として調査が続いているようです。
 思い出されるのは、100ケ統を越すまき網船団と数100隻に及ぶ近海イカ釣り漁船の毎日の出漁風景です。このとき我が国の一大漁業生産基地の真っ只中で調査を担当できる身の幸せを感じました。また、戦後の漁業史に残る八戸沖のまき網、いか釣りの調整問題に、研究再度から一定のコンタクトをなし得たことは、「漁業とは・・・」について勉強するよい機会を与えてくれました。当時、理解して協力してくれたのは十数人に及ぶ漁労長・通信長もすっかり老いました。時の流れを感じます。
 反省点です。水研における研究対象は、生産量の大きい大規模漁業にこそ力点がおかれるべきという発想だったのでしょうが、塩釜ではカツオ・サンマ、八戸ではスルメイカ・サバ等と、いわゆる魚種別研究が主体でした。個人的な興味もあって、浜は近いのだし、沿岸小規模漁業の資料も集めておりましたら当時の木村所長からお叱りを受けた思い出があります。
 いま、沿岸の時代です。正直言って、お惣菜として主婦に馴染みの深い沿岸性魚種で、生態に関する知見は極めて乏しいのが現状ではありませんか?もう少し反旗をあげても良かったと思いますが、遅れました。7
 これからの水研には、地域の海洋生物に関し、知識の宝庫としての役割が期待されていると思うのです。
 組織改編のことでは、入所早々プールでカレイを追い回していたら、支所・試験地の統廃合が論議され始めました。以後ずっと支所廃止問題が論議にされ、いつも八戸支所が槍玉にあがっていたように思います。東北水研ニュースNo.55によれば、今後は八戸支所が資源研究の中心になるとか。変われば変わるものですね。聞くところによると「独立行政法人化」とか、私どもには内容のよくわからない改革路線が続くわけですが、現役のみなさんの情熱で、見事に克服されることと信じています。
 私事ですが、最後に過ごした東海区水研でも組織改定や庁舎移転に係わることとなり、結局、入所以来30何年間組織問題に悩まされ続けたように思います。
 以上、とりとめもなく書きました。
 50年の流れの中で、私とも世代では、上司・先輩は勿論のこと、同僚でもかなりの方が物故されています。今後も長らえて、「いまも沖にある未来」の発展を眺めたいと思ってます。これを思うにつけ、今回の50周年記念事業に参加できる身の幸せを覚えます。
 終わりに今回の行事を企画し、実行にあたられた関係各位に心からお礼を申し上げます。
(元 八戸支所)

Yuji Sato

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