「サケ」その後

佐藤重勝


 昭和51年水産庁で私は「溯河性サケ・マス」別枠研究予算の成立に奔走していた。農林水産技術会議管理官としても水産プロパー予算獲得のため頑張り、時に「水産は泥棒だ」と皮肉まじりに云われる始末であった。けれども兎も角この別枠研究成立の目安がつき、私は古巣の東北水研に赴任した。
 昭和52年200海里時代に入り、この年から4年間の別枠研究も、私の後任の須田参事官を主査として始まった。この成功を確信していた私は、東北水研での有用魚類大規模養殖等実験事業から、水産庁と農林水産技術会議への予算請求の顛末を細かく書いた。「サケ海洋飼育放流考案の顛末」別枠研究報告、東北水研(昭和52年)がこれである。
 昭和61年私は「サケ−作る漁業への挑戦」を上梓した。昭和60年に別枠研究の成果報告書は出版されていたが、その普及を待つまでもなく、実際の回帰数は4921万尾、16.8万トン、回帰率は2.7%となり、水産庁はこの年昭和60年放流数を20億尾の一定数とすることに決めていた。
 「サケ」から4年後の平成2年1月私は「作る漁業にかける夢」と題して緑書房の養殖セミナー講演を行った。この講演の中でサケについては、当時宣伝されていたオゾン発生装置利用の”巨大金魚装置”を岩手で多数購入していた件につき警告しておいた。折角うまくいっているサケ増殖をどこまでも伸ばそうとするか心配であった。後に聞くところでは、この装置の使用は現場では自然に自粛してしまったようで胸をなでおろした。このストレスのせいではないが、この年10月私は大腸癌となり、S字結腸と癒着していた腎臓の3分の1を切除する手術(3年後生存率50%)を受けた。勝手な発言をしていた割には命運強く生きのびた。
 その3年後、平成5年のある晩、私はサケ別枠研究の主査だった須田 明さんから電話を受けた。彼は農業試験研究一世紀展で選考委員をつとめ、私に農林水産大臣賞を受けるサケ研究の代表者になれ、と云う。「何も聞いていない」と云ったら、「受けてもらうより仕方がない」と云う。そこは研究者といえども役人同志、甘んじて「よろしいように」ということになった。それから数日で正式決定し、11月17日受賞と正式決定された。
 水産側では当初は国のふ化場を推薦していたらしい。しかし国の研究所が普通に活動していてはできないから、広く諸機関が参加できる別枠研究でこそ大きな技術開発ができるという私の馬力のある主張が技術会議側の委員の頭に蘇って、同時に私の名前も出てきたらしい。そうなれば水産全体の利益のために受けた方がよい、これが私の判断であった。「溯河性サケ・マスの資源大量培養技術の開発」は「サケ・マス放流事業開発共同研究グループ」ということで、主なメンバーとして私の他に飯岡主税、本間昭郎、西野一彦、小林哲夫、広井 修と連なっていた、すべて別枠研究の参加者であり、研究職でない本間さんは「サケ」に書かれているように、この研究発端の頃の重要人物であったから、私としては人選の経緯は知らぬものの100年以上にわたる多くの人の苦労の積み重ねの末に受ける表彰としては、関係者を網羅するのも至極当然の気がした。顕彰そのものにあまり意義を感じない私としては不満はなかった。
 農業試験研究一世紀記念の表彰は、農林大臣賞20(内水産2*)、農林水産技術会議会長賞40(内水産0)、記念会会長賞60(内水産3**)であり、それぞれこの世紀の間に農林水産業の発展に寄与した時代を画するような顕著な業績として選定、表彰された。
 表彰の式典は、皇太子御夫妻を迎えて華やかに行われた。しかしこの年は米作が数十年来の不作で、輸入外米を入れる騒ぎの中で、如何にも世情にそぐわぬものであった。ちなみに代表者は一律旅費5万円と記念として銅鐸(桜ヶ丘2号墳出土)のレプリカを授けられた。銅鐸の意味は、この時代には、大羽弘道の絵文字説は否定され、古代人の心象映像として把えられていただけに、受ける身には皮肉な気がした。なおこの時賞状と共に与えられた業績目録後尾には、「農林水産技術発達年表」がつけられていた。この中から2、3抜き書きすると、
明治21(1888)横井時敬:「稲作改良法」発表、圃場試験提唱.
さけ中央ふ化場設置(北海道千歳)
昭和35(1960)ジベレリン利用ぶどう無種子化技術確立
福田紀文(蚕糸試験場)ら:人工飼料による全令飼育成功化
林 弥栄(林業試験場):本邦産針葉樹の天然分布特性解明、森林生体研究の基礎となる。
武田二美雄(全国すり身協会技術研究所)ら:冷凍すり身技術開発
昭和52(1977)佐藤重勝・小林哲夫(北海道さけ・ますふ化場)ら:さけます資源大量培養技術確立.


 この年昭和52年は、別枠研究開始の年で、私の所属は東北水研であった。年表作成の企画を私は知らなかったし、校正の機会も与えられなかった。この点は多いに不満であった。
 大不作の年に研究顕彰もないものだと考えられたのか、報道も控えめ、反響もなかった。2年後に開かれたさけ・ます増殖検討委員会でも、3年後に開かれた本州さけ・ます40周年記念式でも記録も評価もされていない。
 反響は別の面から起った。平成6年には無茶な輸入もあってサケは大暴落をした。平成8年にはこれを“サケの放流は野中の一本杉”とする松下晃一さんの説、平成9年には“一方的に作らせるだけの栽培漁業の政策は結局破綻”とする魚の消費を考える会の「現代サカナ事情」が出た。1年たっても反論が出ないので、私は伊藤 準(元遠洋水研所長)と共に平成11年「二十億尾放流の時代」養殖、1・2月号緑書房を書き、魚肉の値下がりを上回る筋子とイクラの生産と川釣り革新情勢について書いた。
*12.遡河性サケ・マスの資源大量培養技術の開発
20.冷凍すり身技術の開発
**112.ホテタガイ採苗・養殖技術の開発
113.まいわし冷凍すり身等の製造技術の開発
114.マグロ漁況速報システムの構築とマグロ漁況予測の確立
(元 所長)

Shigekatsu Sato

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