水研半世紀を振り返って

小達 繁


 昔、「・・・は永遠に不滅です」と叫んで引退した野球選手がいたが、水産国日本の最大漁場である三陸沖を研究対象としてきた東北水研資源部が、昨年の秋に突如消滅すると聞いたのは正に寝耳に水であった。第二次大戦後、数十年に亘って我が国の水産蛋白資源確保のための調査研究に努力をしてきた資源研究者にとっては衝撃的ニュ−スであった。自然の海洋と水産資源の長期変動を解明するためには、誰しもその研究組織は永遠に不滅であると信じて疑わなかったに違いない。その機構が突如としての崩壊する羽目となった背景にはそれなりの理由があるに違いない。
 戦後間もない昭和24年に、それまでの農林省水産試験場が解体されて8海区水産研究所が設立された。またこの年の前後は、農林水産省設置法による水産庁組織の制定、漁業法等々が矢継ぎ早やに整備され、新生水産日本の再出発を象徴する年でもあった。あれから半世紀が経過し、何度かの組織機構の改変などを通して、光陰は矢の如しを実感させられる今日である。
 私は水研設立直前の昭和23年から農水試の木村研究室において、カツオ・サンマなどの漁海況に関する卒論について指導を仰いでいた。当時、木村研究室では初夏に黒潮とともに北上するカツオ群を追って鹿児島−静岡−東京と調査を行い、初夏の侯になると三陸の各地へ移動した。さらに秋親潮とともに南下するサンマ漁業の発展によりその調査も加わった。そこで拠点となったのが石巻・女川・気仙沼の各漁港であった。塩釜港は、戦後荒廃した東京から食料買い出しで満杯の上野発夜行列車に乗り、仙台駅から仙石線に乗り換えて通過する見知らぬ街に過ぎなかった。このような季節的調査(三陸では6〜10月)の繰り返しはその後3年ほど続いた。
 組織上水研は昭和24年6月1日に設置されており、東北では木村喜之助博士が水研所長に発令されていた。その後人事採用も進んではいたが、昭和27年に塩釜市に新庁舎が完成するまでは、採用された各人は各地で調査や準備活動に励んでいたのである。
 その当時の資源関係の市場調査については、今から丁度10年前の東北水研ニュ−ス37号設立40周年記念特集号に記述したので省略する。
 ところで、東北水研が塩釜に配置されたのには、白河以北で最大の都市仙台に近く、東北大学との交流など何かと利便であり、仙台市の外港として塩釜港の将来性も期待されたのかも知れないが、カツオ・サンマの調査を行っていた我々としては石巻港などに愛着が深かった。しかしその後、我が国の高度経済成長につれて、日本漁業も沿岸から沖合へ、沖合から遠洋への掛け声とともに急速に外延的に発展し、塩釜港も北洋漁業基地として空前の繁栄を誇ることになった。さらに、戦後開発されたさんま棒受け網漁法で飛躍的に漁獲量が増大してさんま漁船の入港は引きも切らず、かつお一本釣り・巻き網の水揚げも増加し、これらを対象として市場調査と研究の場が合致したこと、増殖関係では松島湾という恰好の養殖場を控え、当地への水研設置については先見の明があったとも言えよう。
 だが、その後漁業の変遷に伴う水揚げ量の変動は劇的でさえある。サンマでは、この漁業史上最大の漁獲があった昭和33年には、塩釜港の水揚げ量は全国第二位(5.2万トン) を誇ったが、その後急減を続け、昭和49年には1,000トンを割り、それ以降も極めて低調、平成に入ると更に悪化、平成2年には入港船僅か2隻、17トンに過ぎずまさに壊滅状態となったのである。これに比べ県内主要港の水揚げ量は変動を繰り返しながらも高水準を続け、近年では全国第一位(女川:平成7年4.3万トン、気仙沼:平成8年3.3万トン、9年4.3万トンなど)を記録し、石巻港も1〜2 万トンを水揚げするなど極めて対照的である。カツオについても類似の遷移があると言えよう。
 さらに北洋漁場の喪失による母船式さけます漁業や北転船底曳網漁業の壊滅もこれに追い打ちをかけた。そして当港で唯一存続しているのが巻き網漁業を主体としたまぐろ類だけであるが、かつお・まぐろ類の研究は遠洋水研(清水市)の担当で、東北水研は直接手を下してない。
 200海里時代に入り、海洋水産資源は沿岸国が自主的責任で資源管理することになったが、資源解析の基礎となるデータの収集はどうなるのか。漁獲量、操業条件などは報告書に依存するとしても、年齢解析の基となる体長測定など、水揚げ港において直接入手せざるを得ない項目もある。水研発足以来、数十年にわたって現場との接触から積み上げてきた我々からみると不安がよぎる。
 情報化社会のなかで、データの流通・処理にとって地理的隔離は必ずしも阻害要因ではないが、漁業者と研究者が直に交流することから得られる情報の価値は、貴重なものである。処理能力は飛躍的に発展したが、なんと言っても入力する一定量の基本データとその精度が保障されなければ、解析結果の信頼性は薄い。また、海洋環境の変動やそれに関連した浮魚資源の動向解明には、継続的な長期基礎データの積み上げが必要である。日本近海を回遊する浮魚類からみれば、塩釜港は単なる一地点に過ぎないが、地元で対象漁業が消滅して研究組織も移転するのは、偶然の符節に過ぎないのだろうか。
 今後、東北海区の浮魚資源の評価は、八戸支所で担当することのようである。元来、東北水研本所資源部はカツオ・サンマを担当し、全国的な沿岸資源であるいわし類・さば類の調査研究は回避していた。これに対し八戸支所は当初底魚資源研究を担当として発足したが、折から前浜におけるスルメイカ・マサバの豊漁もあって、否応なく対応することになり、後年はマイワシもこれに加わった。そして今回の組織改変で浮魚類資源研究の中枢として活動することになろうが、現状の組織人員、立地条件などからしてその運営にはかなりの困難が予想されよう。
 水研発足以来、時代の変化に伴う組織改変は何度か行われてきたが、その都度統廃合の対象にされたのは支所の存在であった。それが、今回は支所の拡充(実際には僅かのようである)というこれまでの論議とは逆の結果になったのも解せないが、積極的な支援体制の確立が急務であろう。
 また、水研自体の存立形態への不透明さもある。水研人生半世紀を振り返って、一つの節目を迎えた時代の移り変わりに感慨を深くせざるを得ない。
(元 資源部)

Shigeru Odate

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