乗船調査初体験の頃
小達和子
私は第二次大戦後の荒廃が未だ続いていた昭和26年1月に、動物プランクトンの担当として東北水研に入所しました。その日、東北海区における水研や県水試の海洋調査で採集したプランクトン標本箱がうず高く積んである雑然とした室に案内され、明日から分類定量するように言われました。生物関係でも植物には大変興味がありましたが、動物プランクトンをどのように処理してよいか、直接の指導者もなく途方に暮れてしまいました。それでも小久保清治先生のご教示に従いそのプランクトン図鑑、北隆館の動物図鑑、森喬以氏の文献などと首っ引きで、種の同定と計数を始めました。後年は北大の元田茂教授のご指導を受け、専門的知見を得ることができましたが、最初の頃は120cc管壜1本の標本分類に40日もかかり、遅々として捗りませんでした。しかし、2本目、3本目となるにつれ次第に処理も進むようになってきました。そして、漸く分類も軌道に乗り、毎年採集され送付されてくる400〜500本を処理しなければならない状況でしたが、その頃からプランクトン量を採集標本の湿重量で表示することが一般的に用いられるようになり、これも並行して計量することにしました。この間、東北各県の漁海況定線調査、IBP、黒潮共同調査、さけ大型別枠調査等々の採集標本は40年間に計20,000本以上に達し、それらのデ−タを基に東北海域における動物プランクトンの長期変動を解析するなどして、定年を迎えることになりました。
この間、顕微鏡下でいつもホルマリン固定の標本ばかり見ながら、実際船上での採集や処理方法、そして活きたプランクトンを観察したいと思っていたところ、その望みが叶い昭和31年8月に蒼鷹丸(故今村船長)に乗船する機会を得、初体験の航海をすることができました。21世紀も近づき宇宙飛行士や南極観測など、女性もあらゆる分野に進出してきましたが、その頃の日本では女性が調査船に乗ることなど考えられない時代でした。出船の間際、もやい綱を外すから下船するようにとの甲板員の声に「私は調査員として乗船するんです」との返事に驚いた乗組員の顔や、大勢の見送りの人達に混じって不安げな今は亡き母の眼差しも印象的でした。こうして川崎健先生と相沢幸雄(故人)さんらと共に、12日間の初航海へと塩釜港を後にしたのでした。
1日目は船酔いに悩まされながら観測ワッチには出たものの、直ぐに室に戻って横になってしまいました。それからうとうとしていると、いきなりドアを叩く音と川崎さんの「おい、めしを喰え」という大声にはっと目を覚まし、這いだして行きました。そして夜食のソ−メンを戴いたところ、こんな旨いものがあったのかとびっくりするほどの美味に、すっかり船酔いも覚め、それからは快適な航海を続けることができました。
観測中に近くを通りかかった漁船から「オーイ 女が乗ってるぞ」と驚きの声が挙がったほどでした。その後、わかたか丸や開洋丸などに数回乗船する機会があり、水産海洋の研究に良い経験を得ることができました。船上のバケツの中で泳ぐ活きたプランクトンを見て驚いたことは、顕微鏡下で見たかいあし類や端脚類の長い脚や髭から想像していた泳ぎ方と実際は大きく異なっていることでした。とんだり跳ねたり、小さな多数の脚をこまめに動かしたり、その可憐な行動にまた新らしい興味が湧いてきました。
動物プランクトンは魚類に不可欠の餌料として、その摂餌量や種類が資源の動向に大きく影響する筈ですが、当時はサンマの予報会議でもそれほど関心がもたれず、サンマはあたかも水温を喰って回遊しているかのような印象を受けていましたが、力及ばず具体的な提案もできずに退職となってしまいました。
乗船調査は私の人生にとって貴重な経験でしたが、現在では女性の調査員は勿論、航海士や船長もでる時代ですから、数少ない航海の思い出とともにこれからの彼女達の活躍を期待して止みません。
(元 資源管理部)
Kazuko Odate
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