宮城県沖地震と通勤災害

−悪夢の記憶を追って−

門馬昇平


 「災害は忘れた頃にやってくる」県内を襲った過ぎしチリ地震・津波に次ぐこの被害の記憶は未だに心の片隅に鮮明にとどまっている。昭和53年6月12日通常業務を終え、文書送付のため、塩竃郵便本局(水研より東方3.5キロの地点に所在す)を出る瞬間、午後5時13分、グラッ、グラッ、とすさまじい音とともに上下にゆれ動いたこの時間帯は、4,50秒の出来事であった。
 この時地震そのものは普通でないことを直感した。まもなくけたたましいサイレンの音が鳴り響き、スピーカーでメイン道路の埋没や、倒壊建物の箇所を報じていた。この日は異常事態の騒音で過ぎし悪夢であった(当時、所長・佐藤重勝氏)。翌13日、研究所内の被害状況を確認するなかで、最も打撃を受けたのは、水道施設の断水であった。佐藤所長を筆頭に庶務課長を実務体制の責任者として、復興準備に着手した(当時、庶務課長・浅野象治氏、現岡山県在住)。このようななかで、業務の遂行に欠かせない水の補給が第一歩であった。連日午前・午後と2回直接塩釜市管理の浄水場まで、私と金泉君とのペアで、約4キロの道のりの往復の搬送が続いた。この様な状態が7月上旬までに及び、その後水道施設は通常の管理に復した(金泉 章氏:現在水産庁研究指導課研究管理官)。この浄水場に水を求める車輌が延々と列をつくっていた。順番を競い合う怒号そのものが地震被害による人間模様を実感した。そして、また小さな悩みがあった。それは運搬用の容器があり合わせの物だったことに加え道路もデコボコ状態だったため、水がこぼれ落ちたりで苦労したこともあった。また、運搬中、浄水場の職員から「この周辺は毒蛇(まむし)の生息地なので長靴を履くように」と注意を受けた。一瞬みなは笑いを含みながらも、驚きの顔で足元を見つめた仕業が思い出される。2、3日後建設業の若者が水運搬の合間にまむし2匹を捕獲し得意気に私達に見せびらかして、ひょうきんな会話が当時のうるおいとして残っている。この間約1ケ月余、図書室の倒壊の復旧を含む地下ボイラー室のモーターの補強、そして研究機器等の原形復旧までにはかなりの期間を要した様である。私として、地震による一件落着は在任中における貴重な体験として末永く悪夢の記憶としてとどめることでしょう。

 もう一つの悪夢は、通勤途中の交通事故であった炎天の続いた昭和57年8月2日午前8時20分頃、研究所目前300メートル地点で、私の運転するバイクに、相手方乗用車のルール違反による車線変更の因で衝突事故の発生となった。(診断名:左足下腿部複雑骨折、左肋骨骨折2本折損、治療4ヶ月)私なりに業務のエリアとして、日頃から公務災害に係る取扱いには気配りに留意しながら、この時点で、2、3の案件に対応した経緯があった。如何せん通勤災害は奇しくも担当者である私自身が処理すべき流れが一変し、ミイラとりがミイラとなってしまった。自己反省を求められる事件簿であることを体験した。たしかこの年の5月下旬頃人事院東北事務局主催による「公務災害」を主題とした「通勤災害」説明会が開催された。この日、専門官の問題提起に対しグループ(6人から8人)ごとに規則文言に照らしながら解答をひき出し、集約発表をするといったユニークな説明会であった。これらのかかわりのある内容については、私なりにいささか得手である分野として探究する一定の関心を抱いていたところであった。と、云いますことは入院中は手は自由なので事故処理、また関係書類の整備を含む折衝等が順調に対応できた。この様な処理の大きな支えは何よりも庶務課皆さんのあたたかいお力添えのもと、最終的に「通勤災害認定」を得ることができた。悪夢の「事件簿」として、記録が物語っているところである。

 いま、過ぎし日を振り返ってみるとき・・・(昭和47年10月1日・農政局統計情報部から出向)・16年有余の比較的短い年月であったが、私にとっては多くの得るものがあった。まず職場の人間関係がいつも開放的であったこと、さらに個性豊かな個々の自由奔放な気さくなふれあいが大きな糧となった。
 退職後、あしかけ12年、いま、生活延長のよりどころとして、ささやかな「奉仕」をと、高齢者むけの保険福祉の手助けをしていることを記し、この辺でペンをおきます。
 最後になりましたがこのたびの「創立50周年記念事業実行委員会」の企画立案に心から謝意を表しながら連帯の拍手をお送りします。

(元 庶務課)

Shohei Monma

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