「古きよき時代」とは何か

河井智康


 東北水研には7年間いていろいろな苦労もあったが、昨今のめまぐるしさと比較すれば幸せだったのかもしれない。1997年3月に定年で退官してまだ2年半位なのに、すでに私のいた資源管理部はなくなり、また今度は独立行政法人化で国立の水研ではなくなるという。とても私にはついてゆけない急変ぶりだ。そうしてみると、私は「古きよき時代」の末期にいたことになるのかもしれない。では、古きよき時代とは何をもってそう見るのだろうか。

「文化」と「文明」の違い
 私は以前から気になっていることを紹介してみよう。それは岩波書店から出ている広辞苑で、「文化」という言葉の説明が初版本と第3版ではまるっきり変わっていることだ。その具体的中身をぬき出すと次の通りだ。
 [初版本]:民族・種族など一定の人間共同体が自然または野蛮の状態のままにとどまることなく、それ自身の特定の生活理想の実現を目指して徐々に形成して来た生活の仕方とその諸表現。
 [第3版]: 1*文特で民を教化すること。 2*世の中がひらけて生活が便利になること。文明開化。3*(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住を始め技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同様に用いられることが多いが、ドイツでは人間の精神的・内面的な生活に関わるものを文化と呼び、文明と区別することがある。
 初版本との比較では第3版の3*が相当する説明であろうが、かなりニュアンスが異なり、文化と文明の違いをあまり意識していないものとなっている。広辞苑の編者は同じ新村 出氏だが、執筆者は変わっているのだろう。ちなみに初版は1955年発行なのに対し第3版は1983年であるから、この約30年間に一般世間での文化ということに対する認識が変わったのではないかと思えてならない。私にいわせれば文化が文明の中に埋没しつつあるということであろう。
 たとえば水産に関連しても、四面資源豊かな海に囲まれ、しかも魚食の伝統を持つ日本が、高度経済成長期には沿岸を重化学工業に売り渡して、漁業は沖合へ、遠洋へと進出し、研究もそこへと重点が移った。当時は研究予算も人事も遠洋の資源研究を第一とする風潮があった。そしていきおい、研究手法も欧米風の解析に席巻されていったともいえよう。そこには民族あるいは種族としての生活理想の実現を目指す志はなく、単なる物心両面の成果(物質文明に酔いしれること)に満足していた時代だったのであるまいか。
 近年の水研の研究生活でも似たような点を感じたものだ。東京では殺人的な満員電車で運ばれ、塩釜では1時間に1〜2本の電車やバスで通うのだが、水研に着いたとたんにリアルタイムで霞ヶ関につながり、その日暮らしの研究所生活となってしまっていた。OA機器という文明の中にひたり、理想を求める研究など考える余裕もなくなっていた人が多いのではあるまいか。あるいは逆に、これこそが文化だと思いこむ人もあったのかもしれない。
 つまり、私が言いたいのは、古きよき時代とは、研究生活を含め、文化と文明をおのずから区別でき、文化を文明の上位に置く発想が通用する時代だったということである。

GSKと勤評反対
 漁業資源研究会議(GSK)が以前は活発だったし、様々なことに関心を示したのも、ここでいう広辞苑初版型の文化の見方に関連しているのかもしれない。漁業という産業も文化としてとらえ、そのための資源研究もまた文化という発想で実践してたように思う。そこでは常にあるべき姿や方向を、日本人の理想的な食生活とだぶらせて考えていたのであろう。GSKが勤務評定に反対したことで水産庁が目クジラをたてたことがある。しかし研究も文化として考え、理想的な発展を追求する時に、勤評が障害になると判断することは自然のなりゆきだった。研究者間によい意味での競争があっても構わないが、競争がなければ研究を発展させられないという考え方には同意できなかった。それは研究というもので文化の座から引きずり下してしまう議論に思えたのである。
 当時の議論で、世界的に著名な科学者が、「薄い板にボコボコ沢山穴をあけている研究者より、厚い板に苦心して穴を開けようと努力している研究者の方が高い評価を受けるべきだ」と言ったことへの議論が行われたのを覚えている。つまり勤評はいきおい薄板人間を作り出し、研究そのものが発展しなくなるではないかということである。今日の任期付任用とか、独立行政法人化も同じ次元の問題のような気がする。研究者の理想像の追求が潜在していたのであろう。

私個人の経験から
 私の研究生活をふり返る時、2つの点で自分をほめてやりたいと思う。1つは先述の高度経済成長期にも遠洋資源研究にはまりこまなかったことである。私は東海水研の数理統計部にいたので、遠洋・近海どちらの研究も選択可能であった。しかし豊かな資源の海を周辺にもつ日本が近海の研究をないがしろにする姿に抵抗し、金も人もない方をあえて選択したことである。もう1つは、水研の資源研究が魚種別の研究に終始していたことへの抵抗であった。魚種別研究そのものがいけないわけではないが、そこへのみ固執することは、種の特徴すら見落とすことにもなりかねないと考えた。日本近海資源論へと発展していったのである。以後私の研究は比較生態学的視点からの日本近海資源論へと発展していったのである。
 200カイリ時代を迎えて日本近海の資源研究が再び脚光を浴びるようになり、今日の魚種交替研究、生態系研究が重視されるようになったことを、私は自分の体験を通しても大変重要なことと感じている。私がそうした分野に多少なりとも他に先がけて手をつけることができたのは、やはり文化と文明の区別ができていたからではなかろうか。そして同時にそうした発想を、当時は陽の当たる分野にいた遠洋資源研究者を含めて、水産資源研究者としてありうる選択肢だと認め合える雰囲気にあったことを強調したい。それが「古き良き時代」の構築を期待すること大である。

(元 資源管理部)
*:原文は丸数字です
Tomoyasu Kawai

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