「はるかな昔」

石橋 正


 昭和21年11月、私は水産講習所の練習船の見習い航海士から、当時、月島3号地にあった水産試験場に転じ、第3部漁労係助手(後の高山研究室)を命ぜられた。
 場内で通称「新館」と呼ばれた建物の二階に木村研究室があり、当時まだ43才、学位を取られて三年目の木村喜之助先生が居られた。先生は毎年暮れに行われる職員演芸会で、シューベルトの「冬の旅」の中の一曲を原語で堂々とうたわれていた。(ピアノ伴奏は、まだ大学を出たばかりの研究員、林 知夫さんであった。)
 先生は戦後復興したばかりの日本のカツオ漁業の指導に非常に熱心で、現場に出ては「鳥だけをアテにするな。水温を測れ、特に中層水温を測れ」と説いて廻って居られた。学会等でも模造紙を何枚もつなぎ合わせた用紙に等温線図を書かれ、漁場形成の様子を熱心に話されていたのが印象的であった。(この紙の貼り合わせなど下働きに房州さんという月島育ちの女子職員が協力していた。)
 田内森三郎場長の頃、突然8海区制が出来、東北水研誕生(何故、東北海区水研と云わなかったのか?)、木村先生は初代所長となられ、東塩釜杉の入表という聞いたこともないような所に新庁舎ができることとなった。
 私は高山研究室で資料の飜訳をやったり、調査船艇のお世話をするかたわら、小型調査船常滑丸(後日、後任の小山武夫氏が船名を鷹丸と変えた。)の初代船長を兼務していたが、千葉県勝浦の旭造船所で建造中の中型調査船第一旭丸、第二旭丸の造船監督の仕事もした。
 23年9月、第一旭丸初代船長、安西徳松氏が急に下船。出港が迫っていたので高山重嶺研究室長の「しばらく乗っていろ」という命令で、練習船神鷹丸の三航士や20トンの鷹丸船長の経験しかないのに、いきなり船長職を執ることとなり、北は北海道の利尻・礼文島付近や釧路・襟裳岬沖、東は金華山沖200マイルの横断観測と、宮古試験地・石巻試験地の調査員の人達を乗せて航海した。
 やがて第一旭丸は東北水研所属という指示が出されたが、当時、全乗組員は独身、何の動揺もなかった。組合の方から「東京に居たければ転属に反対すべきだ」という指示があったが同調する者なし。
 第一旭丸、よく働いたと思う。手当のこと。休暇のこと、苛酷な労働時間のことなど思い出すと、あの小さな木造船に乗って乗組員は不満も言わず、よくあれだけ働いてくれたと思う。現在の冷暖房完備、労働条件高揚、しかも鉄で出来た大型船の生活を思い合わせるとまさに夢物語で、当時の乗組員一同にかけた御苦労に本当に申しわけなく思う。私は昭和28年に水研を去ったが、半世紀経った今でも当時の乗組員全員の名前と顔をハッキリ覚えている。みんな、個性豊かな青年であった。
 私はこのところ4年連続で客船あすか(2万8千トン)の世界一周航に講師として乗船している。好きだった星と海にまつわる講座、それに月島の水研当時、木村喜之助先生や島津忠秀先生、末広泰雄先生に憧れて通信教育などで勉強した音楽の知識のおかげでコーラスの指導もやっている。
 去年の世界一周の最後の寄港地ホノルルで、大きな水産庁の船がいた。眼鏡でみると「若鷹」と書いてあった。接岸して上陸許可が下りるとすぐ岸壁を駈けて側に行った。この船、たしか600トン、あの第一旭丸の10倍である。・・・私は50年前、この初代の船の船長であったと思うと感無量であった。そして、年とった乗組員が顔を出したので言葉をかわしたが『そういえば、ずっと昔、22才で船長になったあばれん坊の人がいたとの伝説があるが、あなたでしたか・・・』・・・私はそのひとことを聞いて十分であった。嬉しかった。たとえ伝説の人であっても、「東北水研・第一旭丸」は、私の青春をかけて苦闘したかけがえのない船に違いないのである。[平成11年6月、ミッドウェイに向かって出港前日に走筆。73才6か月。頑健]
(元 第一旭丸)

Tadashi Ishibashi

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