海と魚に学ぶ

福島信一


 大変な世紀末を迎えているが、今年は水研創立50年の節目で、記念の行事が行われている由。新旧の交流などが、21世紀への展望を発信する転機となるよう願っている。首題の仕事には1947年夏、高山重嶺先生の深海底曳試験にて、第二勝丸に乗船実習し出合った。翌年に旧水試に入り、機構改革で東北水研へ移り、所長兼海洋資源部長木村喜之助先生の御指導を受けた。当時、水産資源研究は、最適漁獲量を求めて、「数理学的解析」や「種の生活様式による」(佐藤学派)の方法などが展開され、魚種別専門家が生まれた。筆者は海洋と魚との関係を追求し、漁況予測や資源動向を評価する昔からの方法を踏襲した。
 水試の指導船への乗船で、釜石・小名浜・那珂湊・館山に滞在し、各水試職員との交流を深め、水試創設当初からの報告を読む機会に恵まれた。また研究対象が広大なため、多くの仕事は関係機関の幅広い協力により展開された。本稿ではそれらの経緯を記して備忘としたい。
 すでに明治維新前後に、欧米人により魚介類が研究されていたが、我が国では1886年(明治19)に水産局が「日本水産誌」の編纂を企画したのが発端である。本書は1895年に完成し、10巻からなる。発足当初の快挙であるが、諸外国からの遅れは、内戦や政争に時を費やしたうえ、海上業務に重要な船の性能が劣っていた故であろう。1900年(明33)前後に地方水試が相次いで創設され、漁業試験が始まったが試験場船は7-8トンの帆船であった。1906年以降、浚波性に優れた西洋型の石油発動機付き帆船に移行、翌年には板東丸(千葉県)・奈古曽丸(福島県 後に遭難)など、ケッチ型・19トン・25馬力ほどの指導船が建造され、調査に一新紀元を画した。
 1905年に初めて東北海区沿岸のサンマ漁場開発が始まるが、明治末〜大正年代初には木下信介(福島水試技師)・芳賀奈七郎(岩手水試技師兼教諭)両先輩が指導し、企業化された。サンマ群の来遊、海況条件などの仮説も述べられた。御両所は筆者より40年ほど年長で、木下さんは静岡県伊東に在住された。芳賀さんは塩釜内燃機鉄工株式会社を経営され伊豆沖のマグロ漁の話も伺うことができた(原水爆禁止運動にも貢献された)。また1912年には「日本水産捕採誌(全)」(水産局編纂・水産社発行・大正元年・7円)が発行された。本書は網・釣・特殊の3漁業種別 上・中・下3巻をまとめた1078頁の大著である。
 大正年代に入ると指導船は船型・馬力とも増大し、磐城丸はケッチ型・39トン・50馬力となり、岩手丸・宮城丸・ふさ丸などが活躍した。第一次世界大戦が終わり、南洋群島が委任統治領となり、マグロ漁船は近代化し南方へ進出し、水産業も海洋観測も隆盛期に向かう。1918年には水講に海洋調査部が新設され、第一回海洋調査主任会議が開かれ、道県沖100浬横断海洋観測線を決定・定線観測が開始された。その後、紆余曲折を経ながら継続されている。同年秋には雲鷹丸(水講)ほか指導船5隻により初めて東北海区沖合一斉調査(距岸180浬)が実施された。福島県水試では漁業組合から漁況日報を集め、速報事業を始めた。
 こうして、調査船・指導船の役割は重要性を増した。1923年には磐城丸はスクーナー型・66トン・100馬力となり、機関はディーゼルに替り、無線電信を搭載した。1925年には蒼鷹丸が建造された(後に海洋資源部員の多くが乗船)。筆者が生まれた1927年から木村喜之助・宇田道隆両先生が、水講・水試(1929年新設)と勤続され、海況・漁況の研究に尽力され、隆盛期を築かれる事になる。なお、1930年には水産学会が設立され、「水産総覧」が発行された(大日本水産会、昭和5年、6円)。本書は寺田寅彦・田内森三郎・丸川久俊先生(海洋学を受講)はじめ著名39名が編纂した。水産業・水産業と科学・水産の利用・水産業発達の経路の4編30章・818頁の大著で、教科書として一読に値する。
 1930年代に入ると、北太平洋距岸1000浬一斉海洋調査(31〜41年、8月)、東北冷害対策海洋調査(35〜42年、1・2・3・8・11月)など指導船の一斉調査や海洋観測がしばしば行われた。これらの画期的な調査により、北太平洋の海流系が解明され(宇田1935)、海洋図(月刊)により海況は広範囲に判明した。また中央無線局が開設され(月島)、海況通報がはじまり、漁業上すこぶる有益であった。なお、戦前のマグロ漁場は、日本近海はもとより東は180°Eを越え西経に入り、南は南洋諸島・蘭領印度近海から南緯に及び、漁期は10月〜翌年3月で、いたる所で大漁であった。木村先生はこの広い水域の「マグロ漁況の現在と来漁予測」につき記されていた。
 戦後、東北海区の海況・漁況の研究は木村研究室が担当、1949年に第1回遠洋漁場連絡調査協議会が開かれ、指導船による一斉調査が再開された。1950年には第一回東北ブロック会議が開かれた(その後、各分野別の開催となった)。海洋資源部関係では、サンマ漁業解禁日決定漁場調査・カツオ漁場一斉調査、各水試の定線観測、夫々の独自計画など決定した。この年の部員は8名で、各県指導船・蒼鷹丸への乗船、半旬刊の漁況速報発行、漁況放送など多忙であった。速報業務は6月まで安房勝浦・7月から奥州石巻で行い、すべて手作業なので大変であった。
 1951年から主要漁港にて、カツオ・サンマ資源陸上調査が開始された。年度末に木村所長の発案で函館海洋気象台・第二管区海上保安本部水路部との「東北海区海洋調査技術連絡会」が開かれた。その後、海上自衛隊大湊総監部資料隊も会員となり、各水試関係者は招待参加している。毎年開かれ4機関が1年交替の輪番で開催に当り、海洋観測情報交換・研究発表など行う。特に各年月別の総合海況図と解説は貴重な資料である。3月にはサンマ研究討論会が開かれる。関係水試・水産高校・大学・全サンマ等が参加、調査経過、海況・漁況の総括、漁況予測の検証、研究発表、翌年の調査計画など盛り沢山で、以前は3日を要した。カツオ資源についても毎年、同様の研究会議が開催されている。
 一方、サンマ漁業解禁日は対策会議で、漁況予測をもとに決定した。予報は東北水研の外郭団体「漁場知識普及会」の漁況速報にのせていたが、普及会は1964年に「漁海況予報事業」との係わりで法人化した(会長 横田善八郎氏、常務理事高橋英雄氏、団体会員310)。その後、全国画一的な業務が見直され、1972年に漁業情報サービスセンター(JAFIC)が創立され、普及会は発展的に吸収された。以後、東北水研は漁海況予報会議の開催運営に当ればよいことになった。
 他方、国連海洋法条約への関心が高まり、1973年には漁業資源研究会議が、北海道余市でシンポジウムを開き、全国から資源・海洋部員126名が参加、200海里問題中心に理解を深めた。しかし1977年に米ソ両国が一方的に200海里を宣言し、我が国の北洋漁業は撤退、海洋調査も多大な影響を被った。条約採択の5年前、発効の17年前であった。また1970年前半に、海に係わる全般の分野の第一人者が編集し、「海洋学講座」15巻(東大出版会)が発行された事が特筆される。
 その後、筆者は1980年代は八戸支所・海洋部と勤務、88年に退職した。この間、海と魚に学んだ仕事を総括し、「北西太平洋の海況の長期変動と多獲性浮魚漁況の変遷」をまとめ、マイワシの減少・サンマの急増を指摘し卒論とした(福島・小川、1988,研報50)。以上のように、東北海区の海況・漁況研究は、明治時代の末に始まり、第一次世界大戦後に発展、隆盛期を迎え、太平洋戦争で中断され、戦後に再開され、今日に至った。調査研究は関係機関の協力により推進されてきたが、紆余曲折に満ち、伝統の定線観測や一斉調査のほか、継続性の乏しさが指摘される。次に主な問題点を記し、本稿の終りとしたい。
 先ず、東北冷害対策海洋調査は、異常冷水と冷害との相関が高いので、1935年から8年間続いたが、戦後は1〜2年で打ち切られている。親潮接岸分枝の南への張出しや流量の研究はあるが、9年の周期性・流幅・張出し型・離岸距離などが重要である。遠いエルニーニョ研究もよいが、身近かな海の親潮・北上暖水・魚の動静などに注目し、継続する事が長期予報精度向上になると考えられている。
 次に多獲性浮魚の資源評価を死亡診断の域から、動向予測に高める事である。魚は水中にいるので漁夫の目を持ち、生息環境の特性を究明する必要がある。いわゆる魚種交替を起す漁況の長期変動の影響は、短命のサンマでは、直接、多年齢魚では間接に現われる。また植物性浮遊生物の多い水域は、マイワシの索餌水域となるが、サバやサンマには厄水である。混獲された魚体の大きさは同様であるなど生物学特性も重要である。なお1930年代豊漁期の北海道マイワシ漁場は、道東・噴火湾・津軽海峡など各水域で賑ったが、80年代は道東のみ盛んであった。その後みられた仙台湾の豊漁期(木村1950)もなく、好漁は親潮系沿い水域に限られ、漁獲努力の増大が著しい事などから、1980年代の東北海区のマイワシ資源は、50年前と比べかなり少なかったのではないだろうか。さらに検討してみたい。
 以上、明治の末から、関係機関の協力により展開されてきた東北海区の海と魚の調査研究の流れを中心に記述した。このような仕事は長期の継続性を要するので、水研の行方はすこぶる気になるところであるが、創立以来27年、充実した業務を続けている漁業情報サービスセンターの、一層の発展と活躍を期待している次第である。
(元 海洋部)

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