「1977年」

林 繁一


 塩釜へ向かって延びた東北自動車道には明るい5月の陽光が輝いていました。それまでの28年の職場と違って、一つの海域の生物生産を対象とする仕事ができるという期待がありました。
 折しもこの年の初めには国連海洋法条約の草案も待たずに、米国が一方的に200海里の排他的経済水域を宣言し、それに続いて欧州諸国、旧ソ連等影響力の大きい国々、東アジアの中国、韓国が倣い、我が国も200海里の漁業専管水域を設定しました。当時の資源部に配属された私にとってウラジオストックにある太平洋漁業海洋学研究所ТИНРОとの共同研究の扱いが気になっていました。既に10年余り続いている研究者間の協力が共有資源の理解に大きな役割を果たしてきたことと、国の利害が研究の協力に影響した他の資源の例を見てきたので、対応を誤らないよう神経を使う必要を感じていたのです。案の定この年には両研究所共に漁獲資料の交換で苦労し、新しい道の模索を求められました。幸いあまり深刻な問題とはならず、後に当時の責任者であったノビコフ氏と東京で巡り合った時には懐かしい話題の一つとなった程でした。
 同じく国際問題が入り込んだカツオでは様子は違いました。沿岸国の権利の主張が強くなった時代でしたが、当時は高度回遊性魚類の管理について我が国はかなり信用されていた上に、本研究所が蓄積していたカツオに関する知識は南方漁場をめぐる科学会議で高く評価されていました。さらに行政・業界の努力で南太平洋委員会に第18初鳥丸を提供して成功させた大規模の標識放流実験も沿岸国に好感を与え、TOUHOKU-SUIKENは同委員会の主な会議には常に招待されていました。
 遡河性資源の沖合利用を禁じる方向にあった新しい海洋秩序形成の動きに対して母川国への道を求めた大規模な研究が進められてきたことは、佐藤重勝元所長の名著にも記されている通りですが、資源部も当時進められていたプロジェクト研究の一つの課題として三陸周辺海域の大型プランクトンの現存量を推定しました。研究所設立間もなく関係する諸県の水産試験場他多くの機関の協力で得らた資料を電算機処理して求めた値は1951年から1970年代にかけて次第に大きくなり、回帰してきたシロザケ個体群には餌料の不足が起きていないことを示したのです。この研究はさらに1998年度まで続いたマイワシの資源変動機構に関するプロジェクト研究でも重要な役割を果たすこととなりました。
 東北区水産研究所にはこの年から4年間、さらに1985年度にも働く機会を与えられ、都合5年を過ごし、その75%以上は資源部だけでなく研究全体、後には研究所全般のお世話に費やしました。したがって当時の増殖部、海洋部、八戸支所、それに庶務課、調査船わかたか丸、旧焼津分室のいずれにも多くの思い出があります。紙面の制約もあって強い第一印象を受けた1977年のできごとだけを取り上げました。この年は我が国の水産業の大きな転機となった時期の一つでもありました。社会に出て約50年を経た現在、水産業を巡る情勢は非常に厳しくなっていることを肌身で感じています。世の中が変わったからという意見もあります。しかし生活水準が高くても、自国の経済水域が小さくても漁業を発展させているノルウェーの例もあります。天賦の資源の持続的利用、地球環境の回復、人間社会の平衡が求められる次の世紀には、水産業を含む食料産業の振興は先進国に課せられた責務となる筈です。それに欠くことができない知識の創出の一翼を担う東北区水産研究所の一層の発展を期待しながら、二昔前を思い出している次第です。
(元 所長)

Shigeichi Hayashi

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