”わかたか丸”から”若鷹丸”へ

長谷川峯清


 平成4年4月から4年間、東北区水産研究所に在籍し、わかたか丸の最後の3年間及び若鷹丸の最初の1年間、それぞれの船に乗船していろいろな経験をさせてもらった。乗船中の思い出のいくつかをここに紹介したいと思う。
 人事異動により、処女航海が終わった新造の開洋丸からわかたか丸に着任した日の夕刻、小雪が舞う寒い八戸駅のホームで、鮫駅に向かう八戸線の列車を一人で待っているときの、初めての船長職としての先行きに対する不安と心細さ、そしてその夜わかたか丸に乗船したときの、船体の小さいことと古いことに対する驚きは今でも忘れない。
 老朽化した船体については、安全な航海ができるよう代船が建造されるまでの延命工事を早急に行う必要を感じ、水産庁本庁関係各課に必要な予算措置をお願いするとともに、その老朽化の状況を直接観察してもらうため、乗船調査員、当時の本庁研究課及び東北水研庶務課と協議し、早速同4年6月の調査航海途次、補給を兼ねて東京に寄港することとなった。東京入港時には、本庁から大型バスを仕立ててわかたか丸の見学ツアーが催行され、当時の漁船課、研究課及び船舶管理室等から多くの関係者が参加し、新造船が揃っている東京では見ることのできない状態の船を見てもらい、その後工事に必要な予算の配分を得るなど、当初の思惑通りの成果を得ることができた。
 同4年12月から翌年2月にかけてわかたか丸は、船底の約半分にあたる12枚の船底外板を切り換えるという大延命工事を行った。同工事は、それまでに応急処置で破孔を塞いでいた数箇所、板厚計測で損耗が激しかった船底外板及び船底構造の破孔部の鋼板切り換えなど広範囲にわたって行われた。
 延命工事後、同5年3月2日から17日間、当時の海洋環境部生物環境研究室が担当する「経常研究及び海洋遠隔探査技術の開発研究に関する調査」が、松尾豊同研究室長、横内克己研究官及び初沢和彦、工藤裕一両補助調査員の4人の調査員が乗船して行われた。同調査航海は、犬吠埼南東方沖合で黒潮を横切るように設定された観測点において、CTD、ロゼット採水、稚魚ネット及び表層トロールの各観測を行うもので、黒潮流軸内の潮浪の中での観測であり、わかたか丸にとっては厳しい海域の調査であった。
 同調査航海中の3月12日、発達中の低気圧が接近して時化が予想され、調査の続行が難しい状況になったため、10時5分調査を中断して荒天避難することとし、犬吠埼南部の名洗港外に向けたが、15時30分北〜北北東から波長の短い波高4〜5メートルのうねりを右舷方から受け、航行を続けることができず、やむを得ず時化支えを開始した。支えを開始した地点は北緯35度40分、東経142度42分付近で、水温が19.0度、気温との温度差は10.5度もあり、うねりは黒潮の潮浪と相俟って船体を木の葉の如く大揺れさせる状況であった。その後、時間を追って風波がさらに強まり、翌13日正午には北西の風風力9、波高8メートルを超え、船首マストより高い位置から波頭を白く崩しながら押し寄せるうねりに、最早波間に身を任せながら支える以外に身動きがとれず、この状況は3日後の15日2時ごろまで続いた。この間、救命胴衣を準備する乗組員もいたが、本間登一等航海士の「大した時化でない。」の北海道訛りの言葉や、黙々と船橋当直に就いて操舵に当たる乗組員の姿に励まされ、何とかこの大時化を乗り切ることができた。
 このときの荒天遭遇は、その直前の時期に船体の延命工事が行われ、船長として漸く安心して安全な航海ができるものと思い込み、わかたか丸の運動性能や航行能力が全く変わっていないという基本的なことに気づかないまま、荒天避難の開始時期を遅らせてしまった判断ミスが原因であった。その後わかたか丸が廃船になるまで、異常とも思えるほど用心深い運航を行ったことは言うまでもない。
 この荒天遭遇をきっかけに、老朽化した船体、運動性能や航行能力の低さ、厳しい環境での調査能力の低さなどに対する不満は、わかたか丸代船に対する要望と期待に転嫁され、折しも準備中の代船建造計画に強い影響を与えたことは否めない。
 昭和45年3月に竣工したわかたか丸は、平成6年10月末までに、足かけ25年、のべ293次、3,113日間の調査航海に従事し、多くの先達により東北海区における水産研究資料の収集に活躍したことは周知の事実である。同6年11月末には、代船受け取りのため最後の航海に出港する直前、八戸において近郊の関係者が集い、わかたか丸お別れパーティが挙行され、満船飾の最後の姿が、記念のテレフォンカードとして残された。
 現若鷹丸は、建造準備段階で、研究者諸氏及び船側からの要望がふんだんに取り入れられ、平成7年3月に竣工して現在に至っている。わかたか丸の4倍ものトン数になったのも、自然条件の厳しい東北海区の広域な研究対象海域をカバーできる必要性から生じたものであり、最新の多くの調査研究機器や運航機器などが装備され、少人数で稼働するためのきめ細かなシステムや設備が取り入れられていることは、ご存じの通りである。
 おわりに、平成8年4月に海難審判庁に異動し、直接調査船の運航に携わることもなくなってしまったが、今後の東北区水産研究所のさらなる発展と、若鷹丸のますますの活躍と安航を祈るものである。
(元 若鷹丸)

Minekiyo Hasegawa

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