東北水研の2年間

畔田正格


 今から12年前の春水産庁での3年8ケ月のお勤めを終え、東北水研にわくわくしながら赴任しました。遠くの山には雪が残っており、関西以西が主な生活圏であった私にとっては東夷の国へ来たことを実感するとともに、はじめての一人暮らしのせいもあり何とも心細い想いをしたのを覚えています。しかし、増殖部のフィールド調査に連れていってもらい、旧知の小川さんや隣の部屋の安楽さんと酒を飲み、サッカーのミニゲームが始まったころにはなんとかやっていけそうな気がしてきました。奥さんの手料理が楽しみだつた佐野サロンで秘蔵のワインを味も解らずがぶ飲みし、顰蹙(ひんしゅく)をかったり、失敗も沢山しましたが、その後養殖研に転出するまでの2年間は歳をとってから最も感性が研ぎ澄まされた充実した期間でした。

増殖部のこと
 その頃の増殖部は管野さん、小金沢さんといった大物部長の余韻が残っていました。アワビの神様の菊地さんや海藻の大家の谷口さんを中心に新進気鋭の若手等人材が揃い、各種プロジェクト研究・直轄調査等を通じて最先端の研究成果を次々と出し、自由で伸びやかな雰囲気にあふれていました。ブロック各県とのおつき合いも、信頼関係が構築され、順調でした。前任の小金沢さんの参事官への転出6ヶ月後に赴任しましたが、部長不在でも仕事は順調で、部長は本当はいらないのではないかといわれ閉口しました。
 東北水研にしては広い部長室に本棚を買ってもらい、水産庁時代ボール箱詰めになっていた本を並べすこし落ち着きました。昼休みには部の人達と食事をし、夜は他の部の人達やお客さんも交えてビールをよく飲みました。部屋にいた早川女史には読みにくい字をワープロに打ってもらったりした部の仕事以外にパーテイの準備にも随分お世話になりました。このような場での情報交換・論議を通していろんなことが実行されました。
 東北地方の増養殖研究における増殖部の役割、研究の推進方向、県との連携等の論議のなかで、国の研究機関として魚類増殖分野の強化が強く意識されるようになりました。当時海洋研究所大槌臨海センターの所長で教授会に上京する度に東北水研でテニスをし、ビールを飲んでいた川口さんからワシントン大学に留学中の海洋研の山下さんの情報を得て接触を始めました。山下さんには迷惑をかけましたが強引に同意を得て海洋研、水産庁の合意を得て東北水研に来てもらった時には私の仕事はもう終わったと思った程でした。山下さんを説得中「あなたはいつまで東北水研にいるのか」と聞かれ絶句したり、定員等の関係で水産庁や中央水研ともめた時、当時の河田研究課長が「良い人材は取れるところでとり、水産庁全体で大切にしていこう」と言ってくれてほっとしたりしました。
 増殖部の研究環境の抜本的改善のための移転候補地探索やワラサ来遊状況調査のための海門の仙台湾クルージング、買ったばかりの研究所のライトバンが砂に埋まりそうになった塩竃から八戸までのヒラメ稚魚採集ツアー、塩竃のカツヲを持っていった銀山温泉・遠刈田温泉等への部の旅行、「マリーンランチング計画」の成果報告会のエクスカーシヨンで行った中新田バッハホールでのオーケストラ鑑賞、秋の栗駒山へのハイキング・冬のスキー、部の人達に脅かされ自動車学校退学寸前にとった自動車免許等思い出は尽きません。

サッカー部創設のころ
 サッカーは西水研で35歳を過ぎてから始めましたが、すっかり病みつきになり、水産庁時代も中森監督の水産庁チームに入れてもらい昼休みの日比谷公園でのミニサッカー、世田谷リーグや遠洋研との定期戦の試合を楽しんできました。東北水研でも是非やりたいと思っていましたが、自分からなかなか言い出せずにいたところ、5月のある昼休みのテニスの合間に畑村さん、平井さん、佐藤さんからサッカーをやりましょうと誘ってくれた時の嬉しさは忘れられません。3人はそれぞれFW、MF、BKの経験者でサッカーへの情熱のはけ口を仕方なくテニスに見いだしている状況にあり、組織つくりの基本であるチームの核になりました。持続的な組織つくりに欠かせない魅力的な女性シンパ、応援団は小達さん、早川さんが買って出てくれました。
 早速昼休みのテニスの始まる前にテニスコートでミニゲームを始めましたが次第に人数が増え面白くなってくるにつれ、専用のグラウンドが欲しくなりました。研究所の入り口の県の原っぱを貸してもらえることになり、安楽委員長に組合の青年部の「職場要求」としてグラウンドの整備を所側に要求してもらいました。「どうせたいした仕事もしないんだから身体だけでも鍛えておくのもよかろう」という憎まれ口をききながらの佐野所長の英断で、ブルトーザーが来てあっという間に真ん中に松の木が一本生えているサッカーグラウンドが出来あがりました。
 その年は東北水研が全水研テニス大会で団体戦、個人戦とも全国制覇をした年で大会前には土曜日の午後にはみんなで試合用の練習をよくやりました。テニスのあと疲れて帰ろうとするひとを駐車場で見張っていて引き留め、サッカーの練習を強行して、物議をかもしたこともありました。応援も含め、みんなで楽しんだ越後湯沢のテニス大会の余韻の残るまだ暑かったころ初めての対外試合を行いました。核になる3人を中心に喧嘩腰のセンターフォワードの山田さん、みんなの信頼の厚かったゴールキーパーの三浦さんの他いやがる人も動員して東北電波監理局に挑戦しました。試合開始早々から攻めの姿勢を貫き、3:0とリードした時には奥さんと応援に来てくれた佐野所長も「やるじゃないか」と私達を見直したものでしたがその後あっというまに逆転され3:4で負けてしまいました。MFで出場した私はその時の先制点つまり、東北水研サッカー部の初得点の栄誉に輝きました(多くの人に確認済み)。
 その後盛んになった全水研サッカー大会で当時の仲間が水産庁、中央水研、水工研、日水研等所属は違いますが大活躍をしているのをみて嬉しかったのですが、1番感慨深かったのは私達のサッカーへの熱中ぶりにへきえきしていた河村さんが水工研主催の大会で得点王になったのを見た時です。水研サッカーの基盤が固まったのを実感しました。

水産研究所について
 最近の世の中の動きは急激で、社会、経済、政治等の枠組み自体が変化する兆しをみせています。水産研究所についても独立法人化をめぐって厳しいやりとりが続いていると聞いています。しかし、経済発展や社会の成熟に伴って、新鮮で、多様な旬の水産物を安定的に供給するとともに、漁業活動を通じて国民共有の財産であるきれいな海を保全し、リクリエーシヨンの場として提供するという水産業への国民的ニーズは今後益々高まるものと考えられます。また、世界の食糧問題のなかで、特に、タンパク食糧の供給源として水産業に大きな期待がかかっています。食糧問題と環境問題を止揚し、生産の場である海を健全な状態に保ちつつ、自然の流れに沿った高度な持続的生産システムの開発を行うためには自然の営みを総合的に理解し、自然の持つ力を効率良く、引き出す技術を開発する必要があります。また、自然そのものを対象とする水産業はきわめて地域性の強いものであり、我が国の多様な海洋環境を活用し、保全するためには多様な技術が必要です。
 独立法人化によって水産研究所がどのような形になるのかわかりません。しかし、海に生きる生物達が潜在的に持っている生物生産、浄化、安定維持、生体防御等の能力を水産業に活かすため、遺伝子ー細胞ー器官ー個体ー個体群ー群集ー生態系に至る各階層での構造や機能をあらゆる手段、手法を動員して徹底的に分析し、総合的に理解する事を使命としている水産研究所の役割は従来にも増して重要となりましょう。また、現在の海区水研的特性も不可欠と思われます。マリノフォーラム21のような組織にいて企業、県、大学等の組織ではやりにくい生産の現場での応用を目指した基礎研究の重要性とそれを持続的に遂行する水産研究所の大切さを痛感しています。
 私自身関わってきたことですが、組織の改革の論議の際には、組織が最大限の効率を発揮するよう、組織を設計・制御するという発想を中心に、役割分担と協力関係を明確に定義した縦割り組織が望ましい組織であると考えられがちです。しかし、これからの水産研究所は経済、社会、政治の枠組みが激変するなかで食糧問題や環境問題に関して予測困難な問題や未経験の問題にたえず直面することになりましょう。このような時には組織における分業・協働や階層化の構造を柔軟にし、分権化を進め、部門間の水平的な連携が容易な組織にする事が重要と思われます。また、水産研究所の持つ情報能力が今後一層重要となりますが、未知の課題に対応するためには既存の情報を集めたり、加工・編集したりする情報処理能力ではなく、行動力、直感的感覚、芸術家的創造性等に支えられた情勢判断力や情報創造能力が大切となろうかと思います。このためにも異質の情報が自由に相互作用する事の出来る柔構造の組織が必要です。
 夢のある研究のしやすい組織づくりに、しなやかに、したたかにがんばって下さい。

(元 資源増殖部長)

Masanori Azeta

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