ずうっと昔の話

阿部眞雄


きりのない話
 東北水研には1981年(昭和56年)9月から、僅か2年半の勤務である。短い期間であったが、40年間の私の公務員生活の中では最も印象が深い。
 着任早々先輩から、「前任者の実績を汚さないように頑張るということは、仕事の目標を前任者に置いているということらしいが、そんな消極的で半端な姿勢は受入れることが出来ない」と、面と向かって一発かまされた。私の着任挨拶に対する反応である。酒の席でいささか乱れた雰囲気はあったが、私は酔いも吹き飛んできっと身構えたものである。舌禍をまねいたことはその後も何度かあったと思うが、はっきり記憶していることがもう一つある。
 出張の復命書を見せられて、「女こどもの使いではない。もっとしっかり書いて貰いたいものだ」とやったから大変だ。不用意に漏れた言葉で悪意などあろう筈がないのだが、女性を侮辱したと婦人部から突き上げられ、労働組合からも灸をすえられた。
 翌年の1月、父が死んだ。私が東北転勤を知らせたとき、父は「そげえ遠いところにいかなならんのか」と言った。九州の僻地に住む父には、東京より先にまだ日本領が続いているとは想像できなかったと思われる。私が極上の酒を送るというと、「そうか」と応えた。それが私の聞いた父の最後の言葉である。父は東北の酒の味を知らないままである。
 ある日風邪で休んだ。午後になって少し気分がよくなったので、宿舎の窓から外を見ていた。緑の芝生を敷き詰めた広場が続いている。一角で100人ぐらいの人たちが二手に分かれて、激しく揉み合い喊声を上げている。ラグビーの練習には少し変だと、目を凝らし耳を澄ましてようやく理解した。警官隊がデモの規制訓練をしているのである。デモ隊に擬せられた方は赤旗を先頭に、ワッショイワッショイとじぐざぐ行進。また一方には長い竹竿をふりかざす一団も配置されている。機を見て指揮棒が上がり、「かかれ」の命令である。攻防の人数を増・滅したり、配置場所を変えたりして訓練が繰り返される。表情は分からないが、声は微かに聞き取れる。申し訳ないが私はすっかり子供心に浸って、戦争ごっこを懐かしんでいた。それから二、三日して、家族調査という駐在所警官の訪問を受けた。まさか私が長い間窓から離れなかったので、不審尋問をかけたのではないと思うが少し変な気持ちだった。
 会議室横のベランダにススキなどを配して、同僚3人と松島湾の中秋の名月を眺めた。景観に圧倒されて、1時間近くもただ黙って酒を飲んだ。目が滲んできた。あれは一体なんだったのだろう、と今も思い出して首を傾ける。
 降りしきった雪が止んで1日ぐらい経ったとき、風が止まって海面がベタ凪ぎになる。その一刻が雪見酒には最高の舞台と教えられたので試みた。景観には感動したが月見の場合と違って、寒くてとても長居は出来なかった。酒の席が倦みかかるタイミングに、慣例の民謡教室が始まる。最上川舟唄の歌詞にミミズの符号がふってあって、職員の先生が一節ごとに歌唱指導してくれる。いっぱい飲んで赤ら顔の先生は、笑顔が美しくて楽しくていい感じ。民謡はみんなでわいわいやっていると会得した気になって心地好いが、1人になると全く歌えないものだと知った。
 忘年会の席で若者2人が、酒ののみくらべをやったらしい。お開きになって立ち上がったが、つっかい棒をはずされた人形のように、どっとそのまま仰向きに倒れてしまった。やがて下水管のように口から汚水を吹きだしてきた。2人とも全く同じ症状である。つい2、3日前、東北大学の学生が一気のみに挑戦し、急性アルコール中毒で急死した新聞記事があった。とんでもないことになったと私は色を失った。すぐ救急車を呼んで病院に運んだが、処置が早かったのか2時間もしたころ、2人はバツの悪い顔をして処置室から出てきた。私は本当に胸をなでおろした。
 研究所は塩釜市の町外れ、水産加工団地の先にある。松島湾に突き出した鼻にあたる位置で釣人には垂涎の場所らしく、朝出勤してみると囲障が破られたり庭に焚き火の後があったりした。土地の職員に聞くと、昔からの釣り場を研究所が奪ったのだから、多少のことには目をつぶらねばなるまいという。付近に花マムシと呼ばれる毒蛇が時々出没するのも気に掛ったが、庁舎管理上の事故にも遭わず幸運であったというのだろう。
 それらの話は、始めたらきりがない。

小松崎宿舎の用途廃止
 前任者からの引継ぎでは、所内手続きは完了していると聞いていた。しかし、着任早々に現入居者から立退き条件の見直しを要請された。移転先は狭くて、遠くて、宿舎料が高い。当局の都合による移転だから移転費の支給、移転休暇の承認。また宿舎取りこわしの前日まで、宿舎の無料使用を黙認せよなどである。新米課長がきたので少し叩いてみるか、といったところだろうか。
 詰めの段になって宿舎用地の所有者が、日本国有鉄道名義になっていることが分かった。これはまたひと騒動と覚悟していたが、予想に反してスムーズに話が通ったので、私のほうが驚いたくらいだった。しかし、その話の過程で小松崎宿舎用地と、利用されていない加工団地の公園用地を等価交換して、テニスコートをつくる計画が消えた。
 最後の入居者調整で私は多賀城宿舎を明け渡し、遠くて使用料の高い仙台幸町宿舎に移転したが、新築だったので住み心地は最高だった。

大韓航空機墜落事件
 1983年(昭和58年)9月1日、ソウルに向かっていた大韓航空のジャンボ機が、サハリン上空でソ連に撃墜された。日本人28人を含む乗員乗客269人の生存は絶望。私のメモはそれだけだが、翌朝の職場サロンは侃々諤々だったのを覚えている。サハリンは東北と目と鼻の距離である。皆が我がことと受け止めて動揺したのは当然である。
 論点は二つに絞られていた。「ミサイルを発射すれば必ず民間機に命中し、全員が死亡することが分かっているのに、ソ連はなぜ発射ボタンを押したのか」と、「ソ連といえども無警告にミサイルを発射したとは考えられない。大韓航空はなぜその指示を無視したのか」である。そして私たちは、この事件で更にもう一度驚かされることになる。所属調査船わかたか丸に対して、撃墜された大韓航空機の遺体、遺品捜索の協力要請があったからである。
 わかたか丸は運行計画を変更して、急きょ北海道稚内港に向かった。オホーツク海では海上保安部の現地対策本部の指揮下に入って、20地点で底引き網を引いたと聞いた。わかたか丸は9月11日に八戸港を出港して、9月28日に帰港している。蛇足だがしばらくして総理大臣から、協力感謝の金一封が贈られてきた。

「東北交信」
 「東北交信」はB4、表1枚だけのペラペラ広報紙である。しかも手書きだから本文には400字そこそこしか詰まっていない。第1号は昭和58年6月10日、創刊の弁にはこうある。
 「結婚とか、転居とか、職員相互の日常生活のできごとを知らないと何かと不都合が生じます。そんなことから本紙の発行を思いつきました。内容は慶弔、転出入を中心とした庶務課の周辺にあることばかりです。発行は毎月10日。係、室単位に配布します。なが続きできますようご支援下さい。」
 情報不足を訴える支所の不満に、少しでも役立ちたいという試みである。肩を張って構えたらなが続きしない。下世話でいいから、ちょっと立ち止まって話題にされるような記事がいい。
 私が関与できたのは昭和59年3月10日付け10号までである。11号以降は転勤先の南西海区水産研究所で、味わいながら読ませていただいた。

(元 庶務課)

Masao Abe

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