mtDNA分析によるヒラメ種苗の遺伝的特性の研究

朝日田 卓



はじめに
 『オヤジ、何か刺身でも適当に見繕ってくれ。』『へい、承知しました。今日はいいヒラメがありますよ。』『ヒラメねぇ。でも高いんだろう?』 『そうですねぇ。やはり少々お高くなりますが。』『何でも漁協とかで子供のヒラメを放流してるって話なんだが、そのうち安くなるのかねぇ・・・。』『さあどうですかねぇ?安くなったらお客さん、毎日来て下さいよ・・・。』
 経済性の高いヒラメは、各地で放流を目的とした種苗生産事業が盛んに行われている。しかし、その資源は昭和32年をピークに減少し、その後は増加に転じておらず、一部の地域を除いて放流事業は資源の回復に十分に貢献していない。実際には放流魚が漁獲物に占める割合が増しているので、放流効果はあるが、天然魚が減少していると見られている。
 ヒラメに関する研究は、生理生態など生物学的なものから、種苗生産法や3倍体あるいは雌性発生個体の誘起に至るまで、さまざまな分野について行われている。近年は種苗生産法に関連した遺伝的人為操作に関するものなども多くなってきている。しかしながら、天然系群の識別や放流種苗の定着、移動、天然系群への影響(遺伝的交流他)など、放流事業を行う上で不可欠な基礎的研究は必ずしも十分ではない。また、種苗生産に際しては、すくない親魚から大量の卵を採らざるを得ないのが現状であるが、得られた種苗を更に親魚として育成、利用しているところも少なくない。この様に継代飼育された親魚を用いることを続けていけば、近親交配によってその遺伝的多様性が失われることになろう。その結果、種苗生産の効率等に影響を及ぼしたり、放流した際の天然群への悪影響にもつながりかねない。これらのような問題を解決する上でもさまざまな基礎知見の蓄積が必要であるが、特に遺伝学的知見に対する重要性は近年急速に高まっている。生物の系統や集団の遺伝的構造を、分子を指標として探ろうとする研究は1960年代初めから始まり、現在までの30年間に大きく発展を遂げた。そこで用いられてきた手法としては、相同なタンパク分子の(1)抗原抗体反応を利用した免疫学的交叉性の比較、(2)電気永動法による易動度の比較、(3)アミノ酸の一次構造の比較、(4)雑種2本鎖DNA分子の熱安定性の比較、(5)特定の塩基配列を認識、切断する制限酵素による切断地図の比較、(6)組み換えDNA実験法を用いたDNA塩基配列の比較が挙げられる。水産学の分野においてもこれらの手法が1970年代から本格的に取り入れられ始め、(2)を利用した多型検出(アイソザイム分析)による系群の判別などの研究はもはや欠かせないものになっているし、近年では(5)や(6)を利用した研究も報告される様になってきている。この様に現在では、遺伝物質本体であるDNAの直接的解析に、より近い形での解析が主流となっている。また、DNA分析のデータはアイソザム分析のものと比較して、情報が累積的であるという点で優れている。つまり他の研究データをほとんどそのまま使えるという利点がある。本稿では、水産分野においても盛んに行われるようになったミトコンドリア(mt)DNA分析手法を応用したヒラメ種苗の遺伝的特性の研究について、分析手法の簡単な紹介と、現在までに得られた結果等について述べようと思う。
  1. mtDNAとは?
     核外オルガネラであるミトコンドリアは独自のDNAを持ち、そのDNAには核DNAとは異なったいくつかの特徴があることがわかっている。その特徴を簡単にまとめると以下の様になるが、詳しくは他の文献等を参照されたい。
    1. mtDNAは核DNAに比べてはるかに小さい(約1.65kbp)閉環状のDNAであり(共有結合で閉じた2本鎖DNA)、実験的に扱いやすい。
    2. ゲノム当たりの遺伝子の多重性がなく、イントロンや遺伝子間のスペーサー配列もほとんど存在しないなど単純であり、分子進化のモデル系として優れている。
    3. 高等生物においてmtDNAは母性遺伝をするので、ボトルネック効果の判定に適している。例えば、ラバはウマ型のmtDNAだけを持ち、ケッティはロバ型のみを持つ(ラバ=♂ロバ×♀ウマ、ケッティ=♂ウマ×♀ロバ)
    4. 核DNAに比べて遺伝子置換速度が平均10倍程度速いので、比較的近縁の種間および種内でも、DNA配列の多型を核DNAより高頻度に検出しやすく、特に近縁種間の類縁や種内の遺伝的集団構造の分析などに向いている。
      (参考)mtDNAは13種類のタンパクをコードする遺伝子と、16SrRNA, 12SrRNAおよび22個のtRNAの遺伝子を持っている(図1)。mtDNAの進化的変化は主に塩基置換を通して行われる(非転写領域では欠失や挿入が起こっている)。植物のmtDNAは動物のものよりずっと複雑で、いくつかの分割された単位からなっているため、進化などの研究には動物のものほど有用ではない。また、無脊椎動物の塩基置換速度はそれほど高くないらしい。植物の葉緑体DNAもmtDNAと同じ様に環状であるが、大きさは約15万塩基と大きく、塩基置換速度はmtDNAの約1/10と遅い。この為、種内や近縁種間の遺伝的関係を調べるのには向いていないが、属や科などの関係を明らかにするのには有用である。
  2. ヒラメmtDNA分析手法
     水産分野におけるmtDNAの分析は、主に近縁種間の系統や種内の遺伝的集団構造の解明に用いられることが多い。この様な分析には、一般に制限酵素切断長多型(RFLP: Restriction Fragmantal Length Polymorphism)を検出することによって行われる。これは、制限酵素と呼ばれるDNA配列を特異的に認識、切断する酵素でmtDNAを切断し、アガロースゲル電気泳動法により切断片を大きさによって分離し、移動度の比較により切断点の多型を調べるものである。ヒラメの場合も主にRFLP分析を行うのであるが、本研究では少量の凍結組織から抽出した核DNAを含むTotal DNAから、mtDNAだけをサザンハイブリダイゼーション法で検出する手法を用いて分析を行っている。この手法は少量の凍結組織があれば良いので、幼稚魚や遠方からのサンプル分析に適している。分析手順を簡単に示すと、1)ヒラメ凍結筋肉よりのTotal DNAの抽出、2)制限酵素による切断、3)アガロースゲル電気泳動、4)サザンブロッティング、5)化学物質標識mtDNAプローブを用いたハイブリダイゼーション、6)発色反応による切断型の検出、(図2)となる。手法の詳細は他に譲るが、ハイブリダイゼーション法の原理を簡単に紹介しておく。
    *ハイブリダイゼーション法
     原理:二本鎖DNAの変性とアニーリングの性質を利用して人為的にハイブリッドを作らせ(図3)、遺伝子の解析を行う方法をハイブリダイゼーション法という。異なる種のDNAでも相同性領域であればハイブリッドが出来ることを利用した解析法である。一本鎖DNAはニトロセルロースやナイロンなどと強い結合力を持つので、変性させた一本鎖DNAをこれらで出来たメンブレンへ吸着させ、固定しておく。一方で、調べようとするDNAと相補性を持つ特定のDNA(これをプローブprobeという)に、予め放射性同位元素(RI:radio isotope)や非放射性の化学物質などによって標識をつけておく。このプローブDNAも変性させて一本鎖とし、さきのメンブレン上に固定された一本鎖DNAとハイブリダイゼーションを行うと相補的な塩基配列部分で二本鎖形成が行われる。ハイブリッドの形成された部分でプローブに標識された物質によって、特定のシグナルが検出される。この、電気泳動したゲルからうつしたメンブレン上で特定の塩基配列の存在を調べる方法をサザンハイブリダイゼーション(Southern, 1975)といい、分子生物学の研究において最も重要な手法の一つとなっている。尚、本研究ではRIを用いない非放射性の化学物質によってプローブを標識する手法を用いている。
     その他に、超遠心機を用いて閉環状mtDNAだけを単離する方法(プローブ用DNAを精製するのに用いている)や、アルカリ処理法によってmtDNAを分離し直接分析する方法も用いている。さらに、機能的制約が少ないので多量の変異が蓄積しているとされるD-ループ領域を、PCR法(Polymerase Chain Reaction)によって増幅し分析に供する実験も進めているが(図4)、紹介は他の機会に譲ることとする。蛇足ではあるが、分子生物学的手法の応用範囲は年々広まっており、生態学などの分野でも力を発揮しつつある。分野の壁を超えた総合的な研究が当たり前の世の中になったと言えよう。
  3. ヒラメ種苗の遺伝的差異
     ヒラメの遺伝的差異をmtDNA分析により調べた例は、斉藤(1993)が報告したものがあるのみであるが、それによると、由良川河口沖で採集した天然ヒラメ5個体は4タイプの制限酵素切断型を持ち、長さの変異も加えると全て独自のmtDNAを持っていると報告されている(図5)。私が調べているヒラメ種苗サンプルは、東北地方を中心に北海道、関東、中国、九州などおよそ10の道県より、各水産試験場等の協力により集めている。この内一部の種苗について、mtDNA制限酵素切断型の分析結果を紹介する。
     用いた制限酵素は、BamHT、BglT、BglU、EcoRT、EcoRX、HindV、PstT、PvuU、ScaT、XhoT、XbaTの6塩基認識酵素11種類と、複数の配列を認識する酵素AccMTの計12種類である。現時点での分析個体数はまだ少ないので、もう少し数を増やしてみないと何ともいえないが、ある県の種苗10個体を分析した結果では種苗の遺伝的差異は非常に小さいようである。 12種類の酵素のうち、変異を検出できたのは僅か4種類であり、調べた10個体は3つのハプロタイプに分けることが出来た(図6)。しかもそのほとんど(90%の個体)は2つのタイプのいずれかに含まれ、その多様度は、斉藤(1993)が報告した天然のもの(h=0.889)に比べ、h=0.611と小さい値を示した。これは、種苗生産における親魚数の少なさに起因している可能性が考えられる。また、切断型の違いではなく、mtDNAの長さの違いであると考えられる変異を検出した酵素もあったが、これはD-ループ領域での遺伝子の挿入/欠失が原因である可能性が高い。D-ループ領域は前述のようにタンパクをコードしていないので変異の蓄積が多く、塩基置換だけではなく挿入/欠失が起こっているとされている。現在詳しい分析を行っているのでその内詳細が明らかになると思われるが、斉藤(1993)も同様の長さの変異 を報告し、その場所はD-ループ領域であろうとしている。以上の結果から各タイプ間の遺伝的距離を算出し、ヒラメ種苗10個体の持つmtDNAの分岐図を描いてみるとともに(図7)、10酵素について制限サイトマップを作成し、天然ヒラメ(斉藤、1993)と比較してみた(図8)。その結果ヒラメ種苗各タイプ間の遺伝的距離は斉藤(1993)の報告した天然ヒラメのものと大きな差はなく、適当な距離が保たれていると考えられた。また、制限サイトマップは天然のものとの共通点は多いものの、いずれも異なるものであった。しかしながら、斉藤(1993)が報告しているように天然ヒラメが多様な遺伝的変異を保持しているとすると、ハプロタイプ数が少なく90%の個体がa、cいずれかに含まれるこれら人工種苗は、かなり遺伝的変異性を減じているということが示唆されるということになろう。今後、分析個体数を増やすとともに、集まりつつある天然ヒラメのサンプルと種苗との比較や、各県や海域ごとの比較を行えば更に興味深い結果が得られるであろう。現在のところ、遺伝的な問題が原因で種苗生産の効率が悪化したという話は聞かないし、放流種苗の遺伝子の単純化が明日にでも悪影響を及ぼすといったことはないであろう。しかしながら、このままの形で増殖事業を続けていった場合、自然からの 手痛いしっぺ返しを食らうような気がするのは杞憂であろうか。これは何もヒラメだけに限ったことではないが、ある天然群の生息域に遺伝的に異なった種苗を放流した際に起こるであろう、遺伝的混合などを考慮にいれた放流事業が今後必要になるであろうことは想像に難くない。
  4. 増殖事業と遺伝学的知見
     サクラマスは母川ごとに遺伝的特徴を持ち、河川間での変異が非常に大きい(小林、1993)。北海道では資源の減った河川への放流事業が行われているが、他の河川からの稚魚を放しても回帰率はゼロに等しいことが報告されている(真山、帰山、1991)。サクラマスの高い母川回帰性は上記の大きな遺伝的変異に依っているところが大きいと推定されており、遺伝的に異なるものを別の場所に移殖することの困難さを示しているといえよう。日本海側に生息するヒラメでは、能登半島を境に北と南で鰭条数その他が異なり別の系群に分けられる(木下ら、1993)という。これらが遺伝的にも異なることが明らかとなれば、北と南とでの種苗のやり取りには注意を払う必要が出てくるかも知れない。また、アラスカのカラフトマスでは、同一河川の群であっても奇数年と偶数年回帰のものとでは遺伝的に異なり、それらの間での交配はうまくゆかず、たとえ孵化したとしても奇形率が高く生残率も極端に低いと報告されている(Gharrett,1991)。Gharrett等はそれをoutbreeding depression(雑種弱勢?)と呼んでいたが、他の魚種でもこのようなことがあるとしたら、種苗生産等において近交弱勢(inbreeding depression)にだけ気をつけていてもいけないということになるし、近交弱勢を避けようとして遺伝的に大きく異なるものを交配した結果、outbreeding depressionが起こったら泣くに泣けないということになる。今後、さまざまな生物種について種苗生産、放流が行われるようになれば、これらのような問題がいつ、どこで起きないとも限らない。どのような不測の事態にも対処できるよう、またそのようなことが起こらないように、さまざまな基礎研究が必要不可欠である。特に遺伝学的研究分野の重要性は高まっていく一方となるであろうし、種苗放流にあたっての遺伝的モニタリングの必要性も論議されるようになろう。松石ら(1992)の試算によれば、ある生物集団の生息域に、遺伝的に異なった他の集団を放流した場合、元の集団の遺伝的特性は劇的に変化するという。自然個体がWW、放流個体がSSの遺伝子を持ち任意交配すると仮定し、SSの個体は毎世代資源量の一定割合が添加されるとする。放流個体の適応度が低い場合は、WW、WS、SSが共存するが、自然個体と放流個体の適応度が同じで添加率が10%の場合、30世代程度でSS個体が全体の99%を占めるようになる。また、自然個体と放流個体の間の交配がうまく行かない場合は、添加率が少ない場合は共存するが、添加率が10〜15%を越えると僅か15世代程度でSSに置き換わると予測している。また、自然個体が遺伝的に多型であり放流個体が単型であるとして遺伝的変異性の推移を計算すると、放流個体の割合が増えるにしたがって漁場での遺伝的変異性が低下することを示し、もし、漁場の遺伝的組成を保全することが求められるならば、種苗生産に用いる親を自然に近い組成で集めると共に、遺伝的変異性の低下を防止する配慮が望まれるとしている。ちなみにFAOは1980年に、種苗生産用親魚数を、毎代取り替える場合最低50尾以上、継代する場合500尾以上が望ましいとしている。
  5. おわりに
     『お客さん、今日はヒラメが安いですよ。○○霞の新酒も入っているし。』『おいおい、今日はじゃなくて今日もだろう。本当に最近はヒラメと言わず何でも魚が安いねぇ。放流とやらの効果が出ているのかねぇ。』『私ら店のもんも客足が増えて大だすかりですよ。』『旨くて安くて安全でその上健康に良い食べ物が豊富にあるってのはいいことだねぇ・・・。』

     北米ではある水産系の会議において、天然の遺伝資源を乱したり予測のつかない影響を及ぼす恐れがあると言う理由で、人工種苗の放流は出来るだけしないようにしようという決議が採択されたと聞く。また、FAOは生物種の多様性の保護保全の問題に本格的に取り組み始めた。生態系を乱さずに、自然の生産力を最大限に生かせるような増殖事業の展開を真剣に考える時期が来たように思えるが、最後に書いたような会話が交わされる日が来るのは夢物語であろうか。

引用文献

Gharrett,A.J.1991. Adaptive microinfrastructure of a pink salmon population.1991年度日本魚類学会シンポジウム会記. Japan. J. Ichthyol. 36:120-121.
木下 泉、青海忠久、田中 克. 1993. 日本海沿岸におけるヒラメ稚魚の背、臀鰭鰭条数の地理的変異. 平成5年度日本水産学会秋季大会講演要旨集. p96.
小林敬典. 1993. mtDNAの切断型分析による日本産サクラマスの遺伝的分化.養殖研ニュースNo.26:2-8.
松石 隆、岸野洋久、沼知健一. 1992. 放流事業による遺伝子のおきかわり.平成4年度日本水産学会春季大会講演要旨集. p171.
真山 紘、 帰山雅秀. 1991. 淡水期における放流サクラマス幼稚魚の分布、移動.1991年度日本魚類学会シンポジウム会記. Japan. J. Ichthyol. 36:122-123.
斉藤憲治. 1993. 魚類ミトコンドリアDNA分析法とその応用. 平成4年度東北海区人工魚礁技術研究会会議報告. 77-84.
Southern, E. M. 1975. J. Mol. Biol., 98:503-517.

(資源増殖部魚介類増殖研究室:科学技術特別研究員)

kiren@myg.affrc.go.jp

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