太平洋系マイワシの行方

山口ひろ常


はじめに


 水産研究所のマイワシ資源研究担当者の総意として、太平洋系のマイワシ資源の減少傾向が明確になった旨を中央水研名で公表したのは、平成4年4月下旬のことである。平成2年までの三陸北部海域におけるマイワシ資源の動向等については、筆者らが既に東北水研研報第54号に報告した(山口・川端、1992)。その後、平成4年の漁期を通して三陸北部海域(主として八戸近海)ではどの様な現象が見られたかを以下に述べ、今後の太平洋系マイワシ資源の行方について考えてみる。

 八戸港のまき網マイワシの水揚げ状況

 三陸北部の主要水揚げ港である八戸の初水揚げないしは本格的水揚げ日は表1の如くである。この表に見られる様に、かつてはほぼ5月の中・下旬に初水揚げと本格的水揚げが同じ日になされていたが、その後は5月上旬と水揚げ開始が若干早くなり、時に初水揚げ日と本格水揚げ開始日にズレが生じた。平成3年は5月20日と4年ぶりに遅くなったが、昭和62年までの範囲内にあった。平成4年は、初水揚げが6月3日(22トン)、その後ほぼ連日水揚げが見られるようになった本格的な水揚げは6月15日以降であった。平成4年は初水揚げも本格水揚げも従来よりもほぼ1ヵ月遅れとなっている。これは、マイワシがまき網漁業の主対象魚となって以降では、最も遅い記録である。
 表2には1984(昭59)年以降の八戸港まき網マイワシ月別水揚げ量を示した。年明け直後の1月になされた水揚げは、連続した同一漁期のものとして前年分に入れてある。全体を通しての傾向として、年々漁期が短くなり水揚げ量が皆無となる(三陸北部域にマイワシまき網漁場が形成されなくなる)月が早くなっている。平成4年の水揚げ経過は、5月は皆無、6月は2.1万トンと前年(3.6万トン)の57%で約半月間水揚げが無かったことをそのまま反映したものとなっている。7月は6.6万トンと前年(3.7万トン)の1.8倍でやや好調な状況を示した。しかし、8〜10月はそれぞれ 1.6万、4千、及び1.8万トンで前年同期(6.0万、1.5万、2.2万トン)の27、29及び82%と不振な状態が続いた。11月には1.6万トンで前年同期(7千トン)の2.3倍と若干盛り返しの傾向を示したが、12月には水揚げは皆無となった。前年までの水揚げ傾向と12月下旬の他海域での漁場形成状況から判断して、1月に水揚げがなされる可能性は無い。故に、漁期を通しての水揚げ合計は14.2万トンとなり、前年の水揚げの73%にとどまった。前述の7月や11月の好調さも表2の数値を過去に遡って見ると、決して突出した値とは言えない。特に11月の数値は、1990、1991年の過去2年間の11月のものに比べると良い結果ではあるが、1989年までのものに比べると最低の数値に近く、好調であったとは言えない。

八戸港水揚げ物の体長・年齢組成

 八戸港へ水揚げされた漁獲物から標本を採集し、標本の旬別体長組成を求め、旬別水揚げ量と標本体長組成とから水揚げ物の体長組成を推定した。この様にして求めた組成を合計して計を求め、図示したのが図1である。この図で最も特徴的なことは、1988(昭63)年までの八戸港への水揚げマイワシの主体は15〜16cmにモ−ドを持つ中型魚であったが、1989年以降はこのモ−ドが年々大きくなっていることである。具体的には、1989年に18.0cm、90年19.0cm、91年19.5cm、92年には山が二つ存在するが大型魚のモ−ドは20.5cmで、年々モ−ドの位置が0.5〜1.0cm大きくなっている。これは、1987年までの発生・加入状況には極端に大きな変化は無かったが、1988年以降の発生・加入のメカニズムに変化が生じたことを示している。なお、1992年の13.5cmモ−ドの小型魚は、11月になってこのサイズの魚のみが水揚げされた結果を反映したものである。
 標本から採取した鱗を使って年齢査定を行い、年齢−体長キ−を作成して水揚げ物の年齢組成を推定した。最近の状況に合わせて11月までの年計を図示したのが図2である。この図で特徴的なことは、少なくとも1988年までは水揚げ物の主体が2歳魚を中心に1歳と3歳魚で占められていたが、1989年以降は漁獲物の主体が1年ずつ高齢化していることを明確に示していることである。さらに、1988年生まれの年級群の発生・加入が極めて低水準であったこと、及び1989〜1991年級群の発生・加入も1987年以前のものに比較して低水準であることを示している。
 最近の漁獲物体長組成の大型化は、毎年の新規加入群の水準の低さを反映しているものなのである。

 1992年の新規加入群について

 平成4年の漁況を追跡していると、10月までの漁獲物は図1の項で説明した様に、漁獲物はモ−ド20.5cmの大型魚のみで構成されており、17cm以下の中・小型魚は皆無であった。昨年から開始した「太平洋系マイワシ資源緊急調査」の北上期魚群分布調査の結果からも、宮城県以北の沿岸・沖合では中・小型魚の分布・来遊の兆候は認められず、前述の漁獲物の年齢組成の傾向からも、来年以降の来遊動向にはかなり悲観的なものが予測された。ところが、11月になると13cm台をモ−ドとする小型で本年生まれの0歳魚のみがまとまって漁獲され始めた。10月時点まで持たれていた来年の漁況の悲観的予測は、若干だが修正される様相となった。しかし、図2にもう一度注目すると、1985年と1992年の0歳魚即ち1985年級と1992年級群の発生状況は良く似ている様に見えるが、図の縦軸のスケ−ルは1992年のものは単位が千分の1少ない。また、1〜3歳魚の存在量が格段に違っている。7年ぶりの新規加入群の大量来遊現象ではあるが、現時点での楽観的な見方は禁物であることを示している。

太平洋系マイワシの行方

 マイワシ太平洋系群は、資源が増加すると共にその分布域を本邦太平洋沿岸の北方あるいは北東域へと拡大し、その最北部における主漁場が道東海域であった。三陸北部(八戸近海)よりもさらに北に位置するマイワシ主漁場の道東(釧路)沖海域における平成4年のまき網の漁況は、北水研・釧路水試の担当者の報告等を総合すると次の様になる。漁獲物の体長は20cm前後の大型魚を主体とし、漁獲量は約14万トンで前年の66万トンの21%どまり、昨年まで悪くても170〜180トンはあった1投網当たりの平均漁獲量も120トンにとどまった。これら不漁の原因は、マイワシ資源の減少による来遊の不振によるとしている。三陸北部域において観察された諸現象を基に、今後のマイワシ資源の行方を考える上での第1の問題は、11月以降各地でまとまって漁獲されている1992年級群をどう評価するかである。前述の如く、マイワシ1992年級の三陸北部域への来遊水準を漁獲尾数で1985年級と比べてみると、5〜11月の値では26%(1985年:約30億尾、1992年:約8億尾)、1985年に12月の分を加えた年計としてはさらに半分の13%(1985年:約60億尾、1992年:変わらず)にしか過ぎない。図2からも明らかな様に、1〜4歳魚の来遊状況が極端に違っており、もし1993年級も1992年級と同じ水準で発生・加入したと仮定しても、0歳魚が加入して来るのは毎年10〜11月になってからであり、1歳魚のみで5〜9月までの漁業を支えるのはかなり困難と考えられる。平成4年の三陸北部海域では、マイワシ魚群来遊の1ヵ月遅れと0歳魚の突然の出現の外に、10月以降マサバの0歳魚もまとまって漁獲された(この出現はある程度予測されていた)。また、スルメイカの豊漁とそれに伴う魚価安も注目された。さらに、10月中旬には尻屋埼沖でブリが百数十トンもまき網で漁獲され話題を呼んだ。これら諸々の現象を考え合わせると、平成4年はかなり特異な年であったと言え、0才魚の多量出現現象を基に今後のマイワシ資源の行方を楽観的に解釈するのは危険であると言えよう。かって、まき網漁業の主対象魚であった太平洋系マサバも、資源の増大と共に分布域を広げて道東域にまき網漁場を形成し、資源の減少に伴って道東漁場が消滅した歴史がある。生活史のよく似たマイワシもまた、分布域の末端(道東及び三陸北部域)から姿を消していく現象が明らかに進行してると考えられる今日、マサバと同じ道をたどっている様に思われてならない。

(八戸支所浮魚資源研究室長)

Hirotsune Yamaguchi
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