思い出

菊地省吾


 私が農林省に就職したのは、8海区水研に組織替えされる前年の1948年(昭和23年)の春で、職場は宮城県女川町にあった農林省・水産試験場の女川臨時試験地、職種は技術雇いであった。女川臨時試験地は農林省の組織としての主体性は無く、東北大学の農学研究所の所管であった女川水産実験所と事実上一体のもので、大学側の4人の先生(今井丈夫・畑中正吉・佐藤隆平・酒井誠一)の下にいた助手的立場の人々(私を含めて5−6人)が農林省の所属であった。このような変則的な組織形態は、第2次世界大戦中に行われた、舟喰い虫の防除や食料増産の為の大学との協同研究?の要員として配置されたのが敗戦によって置き土産となったものらしい。
 ともあれ、わたしは西も東も判らない身で就職し、貝類幼生の飼育水槽の管理・揚水ポンプの分解掃除・濾過槽の濾材の交換作業等を手伝うことになった。


 女川には3年2カ月在職し、昭和26年6月に8海区水研の一つとして塩釜市に新設された東北水研の増殖部に配置替えになった。この間、人事記録を見ると24年6月に水産試験場が廃止され、一時、東海区水産研究所の所属となり、25年4月から東北水研女川臨時試験地の所属になっている。
 女川臨時試験地から塩釜の東北水研に移籍したのは私1人で、他の人たちは機構改革を機に教員や県水試などに転職された。研究畑で身を立てる自信の無かった私も転職を考えたと思うのだがあまり悩んだ記憶は無い。拾ってくれる宛もなく成り行きに身を任せるしか道は無かったのであろう。
 女川試験地での生活は、働いたと言うよりも卒論を纏めにきた学生生活のようなものであった。2年目からは毎月行われていたゼミのメンバーに加えられ3年目には養殖カキに付着するムラサキイガイの駆除に関する研究テーマが与えられるなど、懇切な試験研究の手解きを受けた。このような生活は今にして思えば、機構改革による女川臨時試験地の廃止を見越し、水研に移った後のことを配慮してくださった先生方の温情のたまものであったろう。しかし、いざ塩釜に移るとなると基礎学力の無い私には研究者になれる自身がなく、胸中は不安で満ちていた。塩釜に来てみると、誰ひとり知っている人は居ないと思っていたのに、女川実験所で卒論を書いていた川崎健さんが海洋資源部に居られ安堵したのを覚えている。
 当時、東北水研専用の独身寮(白砂寮)が仙台の小田原蜂屋敷にあり7人(黒田隆哉、川崎健、川合英夫、福島信一、小達繁、小川達、梅本滋)の寮生と生活を共にすることになった。寮での生活は、その頃はまだ食料事情が良くなかったので食事に対する不満の大きかったことが、悲しいかな今でも心に残っている。
 職場では、海洋資源部と利用部は月島時代の木村研究室と谷井研究室の移転組で、調査研究資材はそれなりに整備されていたようであるが、増殖部はまったくの新設で刑務所製の事務机と顕微鏡が1台ある程度であった。仕事といえば文献を読むしかなく、退屈したときに浅草ノリの流れものを拾って佃煮を作った覚えがある。昭和27年からは、毎年少しずつ調査実験機材が用意されるようになり何かと研究らしい仕事が出来るようになった。海洋資源部が捨てた塩検のサンプル瓶を拾って、まだ使えるぞ!と喜んだのはその頃であったろうかーーもっともゴム栓がぼろぼろだったので長期の保存には耐えなかったが。


 創立当時の増殖部のメンバーは、谷田専治(部長)、佐野孝(水質科長)、黒木宗尚(増殖科長)、秋山(平野)和夫、佐藤重勝、奥田泰造に私(当時は佐藤)の7人であった。
 昭和29年に、全長8メートル・2.5馬力・速力6ノットの調査用の小船が10万円の予算で建造され、ようやく松島湾での調査が出来るようになった。それから35年までの6年間、私はカキの研究を担当することになった。その頃は、松島産の種ガキの 対米輸出が最盛期で、外貨獲得の花形としてもてはやされていた。「種ガキ採苗技術の向上」が研究課題の一つで、それまで地元のカキ幼生の動向をもとに採苗時期の予測をしていたのを、調査区域を仙台湾一円に広げる必要を証明するために、「わかたか丸」を用船したことがあった。このとき船でご馳走になったイワシの缶詰と銀飯の昼食の旨かったことが今でも忘れられない。(船の飯がうまかったためか、船酔いに強い自信のせいか、一度、資源部の臨時調査員に志願してサンマの棒受網漁とカツオの一本釣漁をぜひ体験してみたいと思うようになったがとうとう実現しないでしまった。)


 私がアワビの研究に携わったのは1961年(昭和36年)からで、今年で丁度30年になる。当時の三陸沿岸のアワビ漁は、昭和20年時代の不漁期を脱し豊漁期を迎えていた。魚価は第二次世界大戦によって途絶えていた干鮑の輸出が再開され、日本経済の復興による景気の上昇等で高水準にあった。地方によっては、年間に10日余りの出漁で1年分の生活費を稼ぐといわれ、それ故にアワビの生産量の維持増大にはことのほか大きな感心が持たれていた。
 当時の水産増養殖の研究環境は合成化学工業の発展に依ってパイプや各種容器類に合成樹脂が進出したことにより、海産生物の飼育実験の条件が著しく改善されてきた。このような社会的背景のもとにノリ・ワカメ・クルマエビを始めとする海産生物の種苗生産技術の開発研究が澎湃として出現した時期である。
 東北水研におけるアワビに関する研究は、昭和36年に発足した特別研究「外海性貝類の種苗生産に関する研究」で始まり、塩釜市浦戸にあった寒風沢実験室での波板採苗の成功により、アワビ人工採苗の量産技術の展望が開かれた。しかし、特別研究は3年間で予算が打ち切られ、実用的な技術の確立を見ないまま中断を余儀なくされた。一方では、行政的先走りにより各地にアワビの採苗施設が建設され、県水試の人々の苦悩に満ちた10年がはじまった。
 アワビの種苗生産技術が曲がりなりにも安定的量産が可能な技術水準に達するのは昭和40年代の終わりで、紫外線照射海水の産卵誘発効果の発見等の新しい技術開発が実現してからである。
 この間、私たちのアワビ研究は、人工種苗の放流効果の追跡調査を進めるなかで次第に岩礁域の生物生産構造に関心が向いていった。昭和44年の夏の頃だったと思うが当時研究課の林知夫調査官が来所し、浅海域の漁場開発を主題とする別枠研究の課題化を提起していった。昭和43年に宮城県女川町の江ノ島漁協から磯焼け漁場の改善対策の相談を受けていたこともあり私たちは喜び勇んで「アワビ餌料藻類の造林技術開発に関する研究」の課題で参加することにした。この別枠研究は、アワビ、ホタテガイ、クルマエビの3魚種を対象に「浅海域における増養殖漁場の開発に関する総合研究」(略称:浅海別枠)として45年に発足し5年間続いた。「浅海別枠」研究で、私にとって最も強い印象の一つは研究費が潤沢であったことである。総ての研究費が「浅海別枠」のように配慮されるなら研究効率は倍加されるだろうと思っているーーもっとも一時的には過労死現象が生まれるかも知れないが?ーー。
 ともあれ、「浅海別枠」のおけげで、45年に新設された増殖実験棟の付帯設備も充実し、アワビの種苗生産研究が再開され、母貝の成熟制御・「紫外線」の発見・巡流水槽の開発・・・・へと展開していくことになった。


 今、これまでの研究生活を振り返ってみて特記しなければならないのは、各地の漁業協同組合の方がたの協力である。
 私の生涯研究となったアワビに関する研究の出発は先にも書いたように昭和36年にスタートした「種苗生産特研」であるが、この研究を課題化できたのは、たまたま寒風沢実験室が存在したからであった。この実験室は塩釜市浦戸東部漁業協同組合の尽力により昭和30年?に塩釜市の予算で作られた建坪6坪の建物が核となり、そのあと国の予算で毎時6トンの揚水設備と6坪の飼育槽が追加された小規模な施設であった。今では跡形も無くなっているが私は「アワビの人工採苗発祥の地」の記念碑を立てたい心境である。
 海中造林の研究では、造林実験の根拠地となった江ノ島漁業協同組合、実証漁場を引き受けていただいた青森県・尻屋漁業協同組合と岩手県・宿戸漁業協同組合には寒風吹き荒ぶなか組合員総出の協同作業を3年余にわたってお願いするなど本当にお世話になった。
 巡流水槽・採苗システム開発・育種研究の段階では、岩手県の気仙町漁業協同組合と広田町漁業協同組合において、事業用の施設をあたかも実用化試験のテストプラントであるかのように使わせて貰い、また事業成績を半ば犠牲にしながら時には徹夜の採卵作業など献身的な協力を仰いだ。
 こうして振り返ってみると、私のアワビ研究は漁業者の協力で成り立ったというよりも、アワビ漁民との協同研究であったと総括すべきかもしれない。


 終わりにのぞみ、真理に近づく自由な発想を教えてくれた数多くの研究者の皆さん、気侭な研究所生活を許して下さった庶務課の皆さん、また、社会的視野を拡げてくれた労働組合・科学者会議の皆さんに心から感謝の意を表し退職の挨拶に代えさせていただきます。長い間、有難う御座いました。さようなら

元 資源増殖部魚介類増殖研究室長

Shougo Kikuchi

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