八戸支所の底魚資源研究の40年を偲んで

安井 達夫


 八戸支所は1950年(昭和25年)5月6日、前月1日に東海水研から東北水研に所属替えになったばかりの宮古臨時試験地が丸ごと八戸に移転することによって開設されたもので、支所創立40周年は正確には来年である。けれども、第二次大戦後の混乱期に、日本を占領統治した連合国軍最高指令郡(GHQ)の意向資源管理を根拠にした漁業秩序の回復・・・・・そのための漁業資源調査研究の展開を、いち早く先取りした当時の農林省水産試験場長田内森三郎氏の構想のもとに、調査拠点として1947年(昭和22年)に全国各地に設置された分場・試験地の一つであった宮古臨時(なぜ臨時であったかというと、宮古に落ち着くという保障がなかったからであったと、後日聞いた)試験地の主任務であった“東北地方〜北海道太平洋海域の底魚類資源の調査研究”を、そのまま引き継いだ八戸支所の業務の歴史は42年余りになる。
 当初“漁獲の理論(ポピュレーションダイナミックス)”など知らなかった漁業技術者によって構成されていた試験地の仕事は、当然のことながら、底びき網漁船を使って、底魚類の分布状態を調べることから始まった。実際に、漁船に乗って漁場へ行き、漁獲される魚を一ひき網ごとに調べてみると、日本列島に沿った太平洋側の大陸棚斜面は狭く急傾斜で、多様な魚種が、しかも年齢別に深さに対応して棲み分けている傾向が強く、そのうえ地域差があって、それぞれの魚種それぞれの年齢群に加えられる漁獲の強さがまちまちで、“漁獲の理論”でモデル的に示されたノースシーのカレイのように、漁獲対象となっている各年齢群に同じ漁獲強度が加わっていて、漁獲魚の年齢組成から一定の年減少率(死亡率)が求められるのは、ごく限られた場合だけで、笠原康平氏が手がけられた1950年代前半の北海道恵山沖のアブラガレイ高年齢群の例、筆者が行政の緊急要請によって応急に試みた1970年代の日高〜室蘭沖のスケトウダラの例(未公表)、三河正男氏が報告された1980年ごろの宮古沖のキチジの例ぐらいしかない。
 そのアブラガレイでさえ、市場に陸揚げされた高年齢群については死亡曲線が得られたが、実はこの魚種は年齢による棲み分け傾向が著るしく、若齢魚は浅い場所で他のカレイ類と一緒にかなりの量が漁獲されるが、商品価値がないため選別のうえ海上で投棄されてしまい、試験操業での目視推定量の記録以外には漁獲記録はない。まして年齢組成は全く解らずじまいで、しかも、不思議なことに3〜4歳魚がほとんど漁獲されず、どこで生活しているのか把めないという具合なのである。そうこうしているうちに、数年でアブラガレイ高年齢群資源は激減し、その後集中的に漁獲されたメヌケ類の資源も潰滅的状態になって、資力のある漁業者は千島〜カムチャッカヘ進出して行き、日本近海の漁業秩序の混乱(特に底びき網漁業での)は、資源の合理的利用についての結論が得られぬうちに、問題を内包したまま、経済の法則に従って表面的には解消した。
 そして、国際漁場での対外交渉の場合を除いては、資源研究無力論・無用論がささやかれ、ポピュレーションダイナミックス批判、生態研究重視論が叫ばれ、八戸支所でも、研究の重点が生態解明に傾斜し、研究の対象も、底魚類の回遊移動、産卵生態、卵、稚仔分布発生、食性、環境条件(海洋、プランクトン、ベントス)などのほか、深海魚類の種の同定、スルメイカの生態・漁況変動などと多様化していった。
 1960年代になると、遠洋漁業の発展に伴う国際漁場での資源研究、日本近海でのいか釣漁業やまき網漁業の発展に伴う浮魚類の資源と漁況海況変動の研究、沿岸域での増養殖技術開発の研究などの強化が当面の課題で、日本周辺の底魚類資源の研究は不要不急のものとされ、八戸支所の存廃が問われることになった。これは独り八戸の問題だけではなく、水研全体の機構改革の一環であったが、東北水研では二度にわたる全所会議の末、八戸支所は半数の勢力をサバ・スルメイカなどの浮魚類の研究に当て、残る半数で底魚類の研究を継続することで落着した。
 その後支所の研究はマサバ、スルメイカを中心に展開され、さらに、スズキやシロザケ幼魚の離岸期の生態の研究などが加わり、それ相応の成果をあげてきたが、底魚類の研究は、特別研究で行なわれた北太平洋全域のスケトウダラの系群判別(橋本良平・小谷地栄両氏が担当)という大仕事以外は、細ぼそと続けられるにとどまった。しかし、歴史の歯車は思いがけない回転をするもので、200カイリ漁業水域の設定に伴う日本近海での外国漁船に対する漁獲割り当て量の決定をしなければならないという皮肉なめぐり合わせに迫られて、再び底魚類の資源評価が求められてきた。そればかりか、支所開設当時にも行われた深海漁場開発を期待した大陸棚斜面深部の魚類分布調査まで要求された。この調査で、一部を除いてはほとんど利用されていなかった水深1000m以深の場所に棲むソコグラ類の分布状態と生態の一部が明らかにされると共に、30年前に潰滅的に減少したアブラガレイやメヌケ類の資源が全く回復していないことも判明した。その理由が、小さくなった資源に対しては、小さくなった漁獲努力量でも相当の強い漁獲圧力となっているためなのか、あるいは他の魚種に優先順位を奪われて、再生産が困難になっているためなのかは不明だが、いずれにせよ極度に減少した資源は回復力を失うことを示している。
 浮魚類の資源量変動でいわれている魚種交替が、底魚類でもあるのだろうか?かつてアブラガレイが減少したあと北洋を主分布域とする近縁種のカラスガレイが増えたという三河正男氏の報告がある。しかしその量はアブラガレイの量には到底及ばなかった。メヌケ類に替わって増えた魚種も見当らないし、ソコダラ類の資源が増えたという確証もなく、これが利用された宮城県沖の漁場では、その資源も急速に減少した。山の話だが、ブナ自然林の伐採に当たって、再生に必要な母樹を残しても、その種子から発生した稚樹は、明るくなった山肌に急速に繁る笹などに負けて、人手による下刈りをしないと育たないといわれている。海でも栽培漁業と称して種苗放流が行われているが、資源が回復したという例は皆無ではないけれど少ない。目的の種を増すためには、それを妨げるものを人手によって排除しなければならないのであろう。浮魚資源の研究では、自然変動論が主流で漁獲の影響が無視されがちであるが、非常に効率的になっている漁撈技術を考えれば、自然の中に割り込んできた強力な捕食者である人間の影響を無視するのは誤りではなかろうか。石戸芳男氏の漁獲努力量と漁獲量の関係の報告でも、東北海区の底魚資源は多少の魚種交替的現象はあるものの、おしなべて小さくなっている。底魚研究の歴史は、強大な漁獲圧力が自然の生物相を利用価値の低い状態に変えてしまうことを示している。浮魚資源でもそのおそれがないとは言い切れないのではなかろうか。そして、一度失われた天然資源を回復させるとか、養殖品種によっておき替えるとかは、陸上と違って莫大なエネルギーを必要とし、不可能に近いのではあるまいか?それよりも豊かな天然資源を適度に利用することによって、子子孫々までその恵に浴することができるようにする方が人類全体にとって有利であると思われる。底魚資源の研究結果はそれを教えている。不要不急といわれ困難な条件の中で、高い評価を受けることもなく、長期にわたって底魚資源研究を続けてこられた八戸支所の人びとに敬意を表すると共に、励ましの一助にでもなればと念じつつ筆をおきます。
Tatsuo Yasui

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