八戸支所と鮫角定地水温

山口ひろ常



 東北水研八戸支所が当地八戸市に正式に設立されたのは、昭和25年(1950)年5月なので、まだ丸々40年は経過していない。但し、当支所の前身である農林省水産試験場の「宮古臨時試験地」の設置は昭和22年(1947)年4月とのことなので、実質的に既に40年を越えていることとなる。私が現在の体制となって以後の当支所への他水研よりの転入者第1号として、遠洋水研よりやって来てはや6年目に入った。その後幾人かの新規加入があったので、古さではまん中より少し下くらいに位置しているが、この40年にわたる支所の歴史や懐古談を語る資格は持ち合わせていない。宮古時代に入省された方がまだ現役でおられるので、当支所の第1次の「華の時代」についての思い出等は、それらの方々にお任せするとして、ちょっと違った観点からの当支所の現状と将来について私的見解を述べる。
 私が当支所に移って来て、先輩から引き継いだ業務の一つに、研究とは直接関係しているとは思えない「鮫角定地水温観測」の作業とその資料の保管・管理がある。残された記録によると、昭和29(1954)年6月から研究所の前の岩場(庁舎の新築移転等で、場所が若干変化していると思われるが、観測場所の記録は無い)における海水温度及び気温と天候の観測が実施されている。但し、初期の10年間ばかりは、5日毎に1回位の割合でしか観測はなされていなかった。ところが、昭和38(1963)年12月中旬から、日曜日を除くほぼ毎日の観測が実施されるようになり、今日に至っている(飯塚支所長の調べによれば、理由は不明だが毎日の水温観測は行っていた八戸測候所がこれを廃止したため、水研が実施するようになったとのことである。)本観測の特徴の一つである塩分量の推定のための海水比重を赤沼式比重計で計る作業は、今日も継続されている。気圧及び最高・最低気温と湿球温度の記録は昭和40(1965)年4月から開始され、同年6月からは降水量の記録もなされるようになった。さらに、海況(波浪とうねり)の目視観測は昭和41(1966)3月末から始められている。庁舎管理のための宿日直制度が存在した時期には、これらの担当者が毎日交代で観測に当たった模様で、それが観測値のばらつきとして見られる部分もある。宿日直の無くなった近年は、底魚資源研究室(旧第1研究室)と浮魚資源研究室(旧第2研究室)とが一ヶ月毎に交代で担当しているが、観測者はほぼ固定された形となっている。
 昭和38(1963)年12月中旬から本年10月下旬までの海水温の各旬の平均値と39(1964)年から63(1988)年までの25年間の各旬の平均値とを計算して、それぞれ実線と点線で図1に示した。これによると、年によりかなり異なった様相を示していることが解る。特に、昭和44・45(1969・70)年は1−3月の冬場は25年間の平均値をかなり下回る冷たい水温であったのに、7−9月の夏場には25年平均をかなり上回っている。昭和48(1973)年になると、冬場は平均を相当上回る暖かい水温であったのに、夏場は平均をかなり下回っていた。このように夏場に平均水温をかなり上回った年は、昭和39,45,48,50,53,59,60(1964,70,73,75,78,84,85)年などが目に付く。一方、昭和51,55(1976,80)年及び63(1988)年は、夏場に平均値をはるかに下回った冷たい水温が記録されている。
 もう少しおおまかな傾向を見てみよう。図2は少し複雑な図でやや見にくいが、上方に実線で示してあるのが年別の平均気温(黒丸)とその5か年間移動平均(白丸)及び25年間の海水温の平均値(=12.07℃)の横線である。年平均値は前述のごとく年による変動がかなり大きいが、25年間の平均値の横線との相対的な関係を見てみる。当初、横線の下側で小幅の変動しか示していなかったものが、1960年代末から大きく変動するようになり、しかも平均線よりも上側に来る年が目立つ様になっている。このような傾向は1979年まで持続したが、1980年からは小幅の変動にとどまっていた。ところが、1984年からは、平均線の下側において大幅に変動する傾向を示すようになっている。このような沿岸水温の温暖な傾向と寒冷な傾向の持続性は、5か年の移動平均でもっと明瞭に示されている。1960年代末頃から平均を上回る温暖な傾向が1980年まで続き、特に1970年代前半は極めて暖かい傾向が持続していた。1980年代に入ると、一転して寒冷な水温となり、それも年々低下の傾向を示している。
 さて、同じ図に当地八戸港に水揚げされた主要浮魚類の内、スルメイカ(近海手釣り、四角印)、マサバ(まき網、丸印)、及びマイワシ(まき網、三角印)の水揚げ量を点・破線を使ってプロットしてみた。マサバ・マイワシは10万トン単位、スルメイカのみ万トン単位である。1960年代後半まで4−6万トンと好調な水揚げを示していたスルメイカは、1970年代に入ると2万トンを割り、1980年には1度1976−79年に見られた極めて低い水準は脱したものの、その後も相変わらず低い水準が続いている。漁場が極く沿岸域に形成されるため、最も沿岸海水温の変動と密接な関連があると思われたスルメイカの水揚げ量の増減には相関関係は見られない。1960年代後半に入ってにわかに水揚げの上昇傾向を示したマサバは、沿岸水温の上昇に伴って年々増大した。水温が高温で経過した1970年代には1976年に1度極端に低い値を示した以外、前半は20万トン前後、後半は30−40万トン台と高水準で経過した。1980年代に入ると水温の低下と共に水揚げも下降傾向となり、1984年以降は10万トン以下の低水準が続いている。1975年まで極めて少ない水揚げしか見られなかったマイワシは、1976年から徐々に上向きとなり、1981年からは急激な増大を示して、時に下降傾向を示すことはあるものの、近年は40万トン前後の極めて高い水準に達している。この急激な増大は、丁度マサバの減少とは逆相関的な様相を示している。ここ鮫角からはかなり離れた所での漁場形成が普通であるマサバ・マイワシが、沿岸の海水温の変動とかなり高い相関関係が存在するかのような傾向を示していることは驚きである。しかも、水温が暖かい時期にはマサバが多獲され、冷たくなるとマイワシに交代しているなど、なかなか興味深い傾向が見られる。
 ところで、既に2年前になるが政府の「臨調・行革審」の一環としての水研見直しの作業を進める中で、我々が最も悩まされた命題が「八戸市に水研支所が立地している意義を明確に示せ」というものであった。これに対する返答も含めて、その際に我々が纏めた文書が当支所の歴史と今後の方向を簡潔に示しているので、以下にその文旨のおおよそを引用してみる。
 東北区水研において資源研究の一部を担当する八戸支所としての研究課題は「水産業関係研究目標」(昭和61年10月、水産庁・農林水産技術会議)及びそれに基づく「東北区水産研究所の研究基本計画」(昭和63年4月)に沿って策定され推進されるが、支所が現在まで八戸市に立地している経過も踏まえながら、今後の体制について言及する。東北海区における漁業は、わが国における総生産量の4分の1を占め、マイワシ・マサバ・サンマ・スルメイカ・アカイカ等の多獲性浮魚類、カツオ・クロマグロ・ビンナガ・カジキ類等の中・高級浮魚類及びスケトウダラ・マダラ・ヒラメ・カレイ類等の底魚類の一大供給地としての役割を果たしてきている。200カイリ時代10年余を経た今日、わが国の200カイリ水域内の水産資源に対しては、再生産を維持しつつ高水準の漁獲を確保し、引き続いて水産物の安定供給を目指すことが益々重要な課題となっている。東北区水研は、青森県から千葉県に至る本州東北部の太平洋側海域(津軽海峡・陸奥湾を含む)の近海・沖合を担当海域としているが、漁業、生物学のいずれの側面においても、北海道東部の沿岸・沖合や千島列島海域も抜きにしては考えられない。この事を背景に、主として沿岸性の浮魚類(イカ類を含む)と総ての底魚類の研究を八戸支所が分担してしている。8海区水研の設立は、昭和24年6月であるが、それ以前の昭和22年4月に戦後わが国近海に閉じ込められてた日本漁業の過当競争を緩和し、秩序ある操業を確立するための資源状態の把握を目的に農林省水産試験場(当時)の試験地又は臨時試験地が各地に設置された。その一つとして、東北海区と関連する北海道太平洋側海域の底魚類の情報収集を目的として、岩手県宮古市に「宮古臨時試験地」が設けられた。その後、8海区水研の設置に伴い各試験地は廃止又は各水研に付属することとなり、「東北区水研宮古臨時試験地」となった(昭和25年4月)。当時は底魚類の資源状態の把握およびその合理的利用方法の解明の要請が強く、しかも東北海区各県所属船の北海道太平洋側海域への入会い問題が大きな課題であったため、これらの生産情報が入手し易い八戸市へ支所が設置され(昭和25年5月)、宮古臨時試験地の業務が引き継がれた。以来、八戸支所は東北海区及び関連海域の底魚類の資源研究を引き続き実施すると共に、昭和20年代後半からの漁獲増加に対応してスルメイカの生態・資源の研究も始めた。昭和30年代に入ると八戸港を中心に、当初ははね釣り、その後はまき網によるマサバの漁獲量が急増した。こうした東北海区北部の漁業の変遷を背景として研究対象を拡大し、それらに対応して研究体制も再編成を行い、底魚関係2研究室の内の一つを浮魚資源の研究室に改編した(昭和38年)。これによって昭和38年から始まった漁海況予報事業へも対応してきた。八戸港に代表される東北海区北部の漁業変化は、昭和50年代以降のマサバの急減とマイワシの急増・高漁獲量持続、200カイリ体制の強化による北洋スケトウダラ漁獲の激減、海外イカも含めてのイカ類陸揚げ量の増加等である。今後も八戸支所はその地の理を生かして、これまでの底魚及び浮魚の資源生物学的研究を積み重ね、さらにこれからの漁業を展望して、200カイリ水域内の有用漁業資源の管理方策の開発研究を中軸にしながら、研究内容の充実を計って行く所存である。
 当八戸地方では、前記の様な長期にわたっての同一地点での海水温を観測したものが存在していないらしく、時々種々の機関や団体から水温資料の利用要請があり、その都度野帳の必要部分をコピーして渡している。さらに、毎日あるいは数日おきに定期的にこの情報を問い合わせて来ている機関として、私が知っているだけで八戸測候所、海上自衛隊八戸基地、青森県水産試験場がある。年々観測者の高齢化も進み、温度計の目盛りを読み取るにも多少の不便を感じる様になっている今日、この観測作業の継続に疑問を持つ者も居る。しかし、前述のごとく少なくとも浮魚類のエースのマサバ・マイワシの水揚げ量の変動には、見かけ上かなり高い相関(あるいは逆相関)が存在する結果が示されると、「鮫角定地水温の変動は漁獲変動とはまったく無関係である」と科学的に証明されるまでは、研究者の集団として無視は出来ない。さらに本資料の存在は、当支所がここ鮫の地に存在していることによる当地方への貢献の何分の一かを担っているとも云える。
 あらゆる面で「効率」あるいは「効果」が云々され評価されている今日、ややもすると目には見えないあるいは効果の示せない作業は、切り捨てられる傾向にある。しかし、延々と積み上げて行くことそのことに大きな意義が存在することを、この鮫角定地水温観測結果は示していると思う。もちろん、研究者たるもの資料の積み上げのみをやっておれば任務は全うしているとの考えは持ってはいけないことは、云うまでもない。しかし、当八戸支所が第2あるいは第3の華の時代を迎えるためには、研究方針に全く新しい視点からの取り組みが可能な若い研究者の参加が必要不可欠である。効率・効果のみを目的とした場当り的な人員配置は、今後の水産研究の発展を阻害する結果となろう。

(八戸支所浮魚資源研究室長)

Hirotsune Yamaguchi

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