サンマ群追跡の想い出

福島 信一


 小生は旧水試の機構改革に伴い東北水研海洋資源部に転じ、サンマを主に殆ど未知であった海と魚との関係、海洋・漁況予測の研究に挑戦し、1980年12月に八戸支所へ、1984年12月に海洋部と往復、去年OB入りしました。当時は生活向上、言論の自由、平和・基本的人権を守るため団結して斗う事も重要でありました。仕事や斗いのうたが“カラオケ”に替わって久しく、皆ひとしく中流化し、総評が解散する今とは隔世の感があります。紙幅も限りあり、今回は少し面白く、参考となりそうな一連の研究にしぼり記しました。
 海洋資源部は海上調査、主要港での漁況・魚体調査・漁況速報発行を柱に、1950年に本格的な業務を始めました。まだ分担もなく、小生は専ら船に乗り、三崎から乗船した岩手丸では、観測点を追加して暖水先端を調べて帰り、三陸沿岸の新緑に目を瞠りました。釜石からは定期船で盛へ行き、汽車で帰京しました。次は茨城丸で鴨川発、翌朝カツオ大群に会し、観測そっちのけで大釣りし、餌場回りもしました。常磐丸では那珂湊に滞在し見聞を広め、道東〜色丹島沖を調査、火光利用、棒受網を操業しサンマ主群南下の遅れを確かめ、解禁日決定の資としました。蒼鷹丸には川崎 健さんと乗船、沖合で海洋観測を行い、船をサンマ大群に誘導し女川から乗船の船頭を驚かし、小川達氏(故人)とは浚渫しおえた石巻に入港し、地元の盛大な歓迎を受けたものでした。乗船合間の秋には川合英夫さんと一足早く、日本一のサンマの陸揚げで賑わう塩釜に来り、借宿舎3軒の管理と魚市場調査を行いました。魚を貰っても川合先生に満足いただく料理に至らず、干物は変色する有様でした。
 1951年1月には皆が新庁舎に集まり、チョンガーは仙台の白砂寮というバラックからの通勤でした。この年から主要魚の資源調査が一斉に始まり、小生はサンマを担当、折から流行の標本抽出法を聞きかじり、陸上調査計画書を作成、関係県水試の協力を得てスタートしました。早朝からの市場通いで好きな海にも出られず、多くの船頭の話を聞いて年も暮れました。5月には焼津で永沼璋氏にカツオの解剖を習い、16A余の大カツオを貰って東海大の井上先生と3人でほぼ平らげたりしました。気仙沼には二階だてのバラックを建て、夏はカツオ、秋はサンマ、時に底魚も頂き、かかる多量の魚食は初めてでした。サンマは中型魚で好漁が続き、12月まで駐在、雪の中で素裸の漁船員が一物の先を藁で結び、鱗にまみれて陸揚げする姿も見られました。千葉の船頭からはサンマの刺身の作り方を習い、以後は宣伝普及につとめ、今では大方の賞味するところであります。
 1952年にはいわゆる資源調査の限界を知り、漁期・漁場外のサンマの群追跡による生活史の究明を志し、先ず北上回遊調査から始めました。6月に岩手丸の協力により160°Eまで往復(船と船長の最終航海)、稚魚網への卵・稚仔の入網は殆どなく、「バケツにあけ、もしいたら小さい網ですくおう」(故 前川船長)という状況でした。ところが幼魚の発見は多く、すでに成長して微速のち網ではとれないだけで、仔稚がいなくても好漁である理由が判りました(後に高速曳網を作成)。翌年は宮古丸で三陸・道東沖を5航海、ナガシ大群を多く発見しながら大獲りできず、逃げた魚は大きく残念でした。しかし魚群が餌生物濃密帯と共に北上し、大きいものが先行、急潮現象に伴い親潮前線を越える様子が観測されました。港祭りにはで獲りたての海胆を鮑ですくって食すなど格別の味も楽しめました。
 1955年にはもう少し北上、釜石市漁船第二恵比須丸により道東〜色丹島沖を反復調査し大型サンマを好漁。釧路の魚価に影響したようです。出航前に尾崎神社祭礼の御座船を努め、御神酒で乾杯、大黒舞でお祝いした御利益でありましょう。本船では魚探機による潜没群の初めての漁獲、南下第一群の確認、大群に囲まれ一部を3回に分け満船したり、サンマに学ぶ得難い経験が一杯でした。さらに1964年から深海丸・俊鷹丸によりサンマの回遊北限を求め千島沖を調査、夏だけ表層に形成される前線が北限となる事を確め、これを千島東方集連線(千島前線)と呼ぶことにしました。探海丸では神崎局長努力の水温情報により魚群の所在は掌にあり、大型サンマの刺身で乾杯し、効率よく広範に航走できました。俊鷹丸では釧路で宮古丸・北上丸から頂いた鮭と筋子が美味で司厨長が箆をかついだと黒肱船長が喜んでおられました。
 冬季の調査は1956年1月に釜石市漁船第二稲荷丸により開始、黒潮流域に至りサンマ稚幼魚を多数発見しながら船底から漏水のため中止、船は紀伊勝浦でドックし小生は陸路を帰庁しました。翌年と翌々年は農林水産技術会議の補助金を受け、天鷹丸によりこの方面がサンマの主産卵場である事を確めました。技会の金は豊富かつ自由に使え、2カ月に及ぶ航海が賄え、これまた今昔の感があります。
 本調査は木村所長が壮行会で「探険」と挨拶され、220トンの船には相当なもので、しばしばビルのような波を乗り越え、BTもなかった時代で観測は大変なものでした。同行した安楽守哉氏は避泊地で呑んだトックリやコップ酒の数も覚えている様子です。
 一方、サンマは流れ藻産卵と言われるので、主に第一旭丸・平和茨城丸・天鷹丸により調査・流れ藻の多いのは6月で仔稚魚は少く、仔稚の多い秋〜冬には藻は少く、流れ藻には多くの魚が付き卵を飽食しており、流藻依存型などと単純に言えません。平和茨城丸では三陸沖の親潮前線で膨大な量の流れ藻と付着卵を発見、夕刻には鳥羽船長(故人)の地元広田に寄港し、同地出身の乗組員もおり、思わぬ歓迎を受け恐縮しました。
 さらに1969年の不漁を機に北太平洋全域のサンマが注目され、1970年には多数の漁船が中央水域〜北米沿岸へ出漁し、見るべき漁は獲られず沙汰やみとなりました(小生も第21はぼまい丸で出漁、160°E辺では極上太サンマ7トン余をひろって帰りました)。その後も調査船が試験操業を続けているようなので、20年の総括が期待されるところであります。
 以上は各種調査の開始を主に記したもので、各指導船、漁船には用船料も支払えずご協力いただきました。食費も免除され、港に滞在中は水試報告の殆どに目を通し、後にサンマの記事は拙著に引用させていただきました。あまり長くなるのでこの辺で終りとし、次に日頃の感想を2.3列挙しておきます。
 浮魚資源の解析は分布回遊、漁場、漁獲量、CPUE、動向予測からなり各魚種共通で10年1日の感があります(例えば「潮」第1号)。水研の仕事なら単なる数値計算でなく年々の気象・海況・魚群・人間の係わり等の状況を正確に反映した総合検討結果でなければ、いつまでも死亡診断書の域を出られないことでしょう。
 資源の増減、漁況予測のはずれ等をすぐ海況のせいにしてしまうが、黒潮や関連海況が具体的にどうなり、魚と係わったのか示されない。これでは新聞や素人向けの羊頭狗肉に近いものではないでしょうか。素直に海と魚に学び自然現象を観察することが望まれます。
 40周年というのに東北水研報はやっと51号(年2回の筈)、第50号も論文の綴じ合せで無関心そのもの、プロとして頑張るか、無理で1回に改めるかでしょう。
 終わりにこの機会に大変お世話になった各船舶関係者各位、水産庁、水研、水試の方々、農林水産技術会議事務局、また協同研究したソ連の科学者に改めて心から感謝し御健勝をお祈り申し上げます。
Shin-ichi Fukushima

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