特別研究「アワビ・カキ等の育種技術の開発」の紹介

原 素之



 近年,諸外国からの漁獲制限や沿岸水産資源の減少により,獲る漁業からつくり育て漁業への指向が強まっている。その結果,人工種苗放流事業等の栽培漁業が推進され,一定の成果を挙げてきている。しかし,更に進んで「育種」となると,まだまだなじみが薄く非実用的な手法として捉えられているようである。それは,水産業がもつ特殊性,つまり人間のコントロールしにくい海という環境に棲む生物を対象としていることに起因しているのだろう。また,海には未開発な部分が多く残され,かつ大きな生産力を持つため,今までは漁獲努力により,わりと容易に生産量を増加させてきたという事実によるのかもしれない。「育種」とは言うまでもないが,人間にとって役立つ遺伝的変異を探し出し,それを品種として利用し,効率的な生産に結びつけようとする技術である。海産養殖業で,品種という概念が導入されているのは,例外的にノリ養殖業においてぐらいであろう。他の海産生物を対象とした養殖業では,野生種の利用にとどまっているのが現状である。そして,研究者の中にもまだまだ水産における「育種」の有用性については疑問をもつ者がいようである。 
 貝類の育種研究は,前述したように水産分野での特殊性から遅れてきた。しかし現在,海産生物の再生産管理を含めた飼育技術の進歩,高級魚における活魚需要の高まりなどから,育種研究は現実性のあるつくり育てる漁業の一つの方向として注目され始めている。このようなことから,平成元年度から3年間の予定で,特別研究「アワビカキ等の育種技術の開発」が開始されることになった。この特別研究では,農畜産分野で数千年前から行なわれ,多くの優良品種を作出してきたオーソドックスな育種技術である選抜,交雑等の育種法の水産への応用,並びに最近発展の著しい染色体操作法等の先導的育種技術の導入などを検討する。そして,貝類を対象とした優良な遺伝変異の探索・誘発・評価・固定化といった育種技術の基本的部分を系統的に開発することを目的としている。 
 この研究は3つの柱(中課題)からなっており,その概要を中課題別に説明すると以下のようになる(図 研究計画のフローチャート参照)。

  優良形質評価手法の開発

 天然集団から育種素材として探索された有用な遺伝子資源及び種々の育種手法によって作り出された新しい変異の諸特性を,客観的に評価するための好適な飼育条件を明らかにする。具体的にはアワビにおいて水温,収容密度,投餌量等を一定にして水槽で飼育するための標準飼育法を開発する。また,カキ・アコヤガイでは養殖施設やその設置場所を考慮した養殖場での比較養成法を開発する。

 遺伝変異探索手法の開発

 アワビにおけるアイソザイム遺伝子分析法を確立し,形態や分布域の違いによる生理特性とアイソザイム遺伝子型の対応関係を調べる。これらの結果から,アイソザイムを用いた遺伝変異の探索手法を開発する。また,アイソザイム分析よりも個体変異を詳細に捉えることができると予測されるミトコンドリアDNA分析法の開発を行なう。

 遺伝変異の誘発技術の開発

 貝類の遺伝特性を遺伝的変異や近交弱勢の観点から調べる。これらの情報をもとに,貝類集団に含まれる優良遺伝子の額度を高めたり,また異なった地方の優良な遺伝子を組み合わせることによって,さらに有用な集団を作り出す方法を検討する。具体的には,エゾアワビ地域集団間でのへテロシス効果をねらった交配法,形態及び分布域の異なったアワビ属間の交雑法の検討である。さらに,妊性や成長特性において,通常の二倍体とは異なることが予測される三倍体の効率的な誘発技術を開発する。

育種素材の選抜枝術の開発

 遺伝特性が比較的明らかにされているアコヤガイを対象にして,真珠の品質や歩留りに関する真珠分泌特性等の量的形質の選抜育種法を確立する。また,貝類は近交弱勢が強いために,非常に困難とされている雌性発生法による形質の固定化技術を検討する。
 以上が特別研究「アワビ・カキ等の育種技術の開発」の研究内容の概要である。このなかで,当所の魚介類増殖研究室は遺伝変異探索手法の開発における「アイソザイム分析による変異の探索」及び遺伝変異の誘発技術の開発における「交雑による遺伝変異の誘発技術の開発」を担当することになっている。
 当研究室が実行する課題についてもう少し詳しく述べてみる。「アイソザイム分析による変異の探索」では,まずエゾアワビにおいて,地域集団間の遺伝的差異を判別するために,アイソザイム遺伝子分析法の確立を行なう。すなわち,アイソザイム分析を行なう体組織(筋肉部,消化盲嚢など)の検索,酵素抽出法の検討,そして分析可能な酵素の選択である。次に,このアイソザイム分析手法を用いて,各地域の天然集団間の遺伝子頻度の違いから,分布域の異なるエゾアワビ地域集団間に,どの程度の遺伝的差異が存在するのかを検討する。人工種苗集団については,種苗生産過程における意識的または無意識的選抜操作により,形質の固定化の進んでいる系統を掘りおこすことも,この課題の重要な目的である。実際,岩手県の某漁協の種苗養成過程で成長の良い群,いわゆるトビ群が見い出された。そして,それを親として生産した種苗に於いて,1年半で83cmに達した群も出現している。また,同様の手法により,分布域,形態等の異なる北方系のエゾアワビと南方系のクロアワビ,メガイ,マダカ等の遺伝的類縁関係を検討する。さらに,アワビの母貝を生かしたまま遺伝子型を検査するための生体検査法の開発を行なう。この手法は,稚貝(人工種苗)の遺伝子型を予測し,生産性の高い遺伝子の組み合わせを,効率良く生産するための重要な技術を開発する前提となる。
 しかし,アワビの天然集団の遺伝的解析に当たって,懸念されることがある。それは,アワビの大規模な人工種苗放流が,各地で実行されるようになってから数年が経過し,現在では年間2000〜3000万個のアワビ人工種苗が海に放流されている。このことにより,すでに本来の天然集団の遺伝的組成が保たれている地域は少なくなっていると予測される。また,このことが生態的にどのような影響を与えるのか,関心の持たれるところでもある。 
 「交雑による遺伝変異の誘発技術の開発」では,まず種内交雑法の検討を行なう。エゾアワビにおいて,分布地域による遺伝的差異が存在するならば,地域間での交配を行なう。つまり,雑種強勢をねらったへテロシス育種法の利用である。貝類では遺伝的変異が多く,近交に弱いとされていることから,一代限りではあるが遠隔地域の組み合わせ交配により,高い生産性の交配種が見いだされる可能性が大きい。
 種間交雑では,北方系と南方系のアワビでの水温に対する成熟反応が異なるため,成熟・産卵誘発等の同調法の開発が必要である。この方法を用いて,人間にとって有利な新しい遺伝子の組み合わせを検索する。例えば,味が良いとされている北方系のエゾアワビや南方系のクロアワビと人為的管理のしやすいとされているメガイなどとの種間交雑により,味がよく飼育しやすい雑種を作り出すというようにである。このようなことにより,優良な品種の出現の可能性が高まってくるのである。
 成長や水温耐性等の改良,つまり育種目標を定めた品種改良の仕事は,対象とする生物を自然と同等か,それに近い管理ができることが不可欠な条件である。エゾアワビでは幸いにも,当研究室の菊地室長の考案による巡流水槽等により,3〜4cmまでの稚貝の成長では,天然アワビとかわらない成長レベルに達している。また,成熟方法や産卵誘発方法も確立されていることから,エゾアワビは品種改良を手掛けられる条件の整っている数少ない海産生物である。さらに,経済面においても,アワビは1kg当たり8000〜10000円(浜値)という価格から,育種による成長特性等の改良により,近い将来経済的に見合った養殖対象品目になりうるだろう。
 東北地方における天然アワビの再生産加入年齢が3から4年であることを考えると,アワビの育種研究においての3年間は非常に短い期間である。この3年間では育種研究のほんの一端に触れるにすぎないかもしれない。しかし水産においても,育種研究が認められ予算化されたということは,栽培漁業の一つの柱である養殖が,生物の遺伝的制御により発展できる可能性を持つことを示すよい機会である。そして,育種研究が今後つくり育てる漁業の新しい方向を切り開く技術として確立し,さらに,将来の大きな夢につながる研究になるよう育ててゆきたいと考えている。
(資源増殖部魚介類増殖研究室 )

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