ラスカー博士とSARP

渡辺 良朗



 米国南西水産研究所のラスカー博士は,1988年3月12日に癌のため58歳で亡くなった。1958年に南西水産研究所の前身 Bureau of Commercial Fisheries Laboratory in La Jollaで研究を開始して以来30年間にわたって,世界の魚類初期生活史研究の指導者として活躍中で,現役での,そしてあまりにも早い他界であった。
 ラスカー博士の初期の仕事は主としてエネルギー代謝などの生理学的研究であった。魚類と餌生物とのエネルギー・栄養関係という研究の発展の中に生理学と資源学との接点を見出し,何によって仔稚魚の生き残りと加入量とが決定されるのかという資源学の根本問題を,実験生理学と海洋生物学との有機的結合によって追究するという方法を確立した先駆的研究者であった。
 浮魚類の資源変動に関する国際プロジェクト研究SARPは,初期生活史研究の総合としてラスカー博士を中心とするグループが生み出したフィールド実験であった。それは,さまざまな環境条件のうち浮魚類の加入量変動を支配する主要因が何かを実証的に検討し得る最新の研究方法に基づいて,世界のいくつかのモデル海域で並行して進められる国際的なプロジェクトで,魚類の資源研究,初期生活史研究にとって画期的な計画であった。
 1986年1月7日〜14日にD.S.ジョルダン号で行われたSARPの第1回調査航海では,ラスカー博士の陣頭指揮の下で南カリフォルニア沿岸海域の詳細な海洋・生物観測が実施された。筆者も研究者の一人としてこの航海に参加した。博士の仕事はきわめて精力的で,SARPにかける気迫が伝わってくるようであった。東北水研ニュース30号に述べたように,米国におけるSARPが予算の裏付けを失って中止されたのは,この航海の後引き続いて行われた第2回航海終了直後の1月28日であった。
 SARPの中止は博士に大きな挫折感を与えたに違いない。しかし,米国SARP中止を伝える各国研究者に宛てた博士の手紙は,それぞれの国で計画されているSARPの積極的推進を訴える力強いものであった。また,今後の米国SARPについての私の質問に対して,博士は1990年に再開する強い決意を表わしてSARPの展望に確信を持っておられた。
 南カリフォルニア沖でのカタクチイワシの産卵期も終わりに近づいた4月27日,D.S.ジョルダン号はラスカー博士の灰を乗せてサンディエゴ港を出港した。灰は博士の研究フィールドとして多くの新しい考え方を生み出し,「ラスカーの湖」と呼ばれているサンディエゴ沖の海域に撒かれた。5月3日にはラスカー博士の人柄と研究業績とをしのぶ追悼集会がスクリプス海洋研究所で行われた。博士の各国の友人からの寄付によって設立された「ラスカー記念基金」は,CalCOFl委員会の管理でCalCOFl学会に参加する若手研究者への奨学金として用いられることになっている。
 1970年から4年間,ラスカー博士は米国政府発行の水産系学術誌Fishery Bulletin,U.S.の編集責任者を担当した。博士の研究者としての名声が世界中から多くの優れた論文を集め,博士の努力によってFishery Bulletin,U.S.誌は世界でも最も権威のある季刊学術誌としての地位を築いた。この業績から Fishery Bulletin,U.S.誌は来年ラスカー博士の記念論文集を出版する。
 1963年10月にカリフォルニアのLake Arrowheadで開かれたCalCOFl学会第1回魚類初期生活史シンポジウムに,コンビーナーとして世界のトップクラスの研究者を集めて今日の初期生活史研究発展の出発点を築いた博士にとって,最後に参加した研究集会が同じLake Arrowheadで昨年秋に行われたCalCOFl学会であったことは,博士のCalCOFlへの情熱をそのまま表わしているように思える。博士に続くわれわれ資源研究者は,博士に学び,博士に並び,そして博士を超えて行かなければならない。
(資源管理部浮魚資源第一研究室)

目次へ戻る

東北水研日本語ホームページへ戻る