ソ連のサンマ漁業と調査を見聞して

小坂 淳



 漁業に関する日・ソの科学技術協力の年次計画に基づく協同調査のため,1981年の8月から9月にかけてわたくしはソ連のサンマ調査船に乗ることになった。
 8月15日横浜を出発し,17日夕刻ナホトカ着,翌日調査打合などを済ませ19日には調査船「トルプチェフスク号」に乗船してナホトカを出港した。
 この船は漁業探査科学調査船団太平洋局所属の中型冷蔵トロール船606.8トンの新船であった。船には船長以下30名が乗組み,その中には魚探や冷凍の専門技士もいた。乗組員の居室は1名ないし2名で比較的ゆったりしていたが肝心の調査室が船首の部分に設けられ,実際航行中にそこで体重測定などが行われるのには驚いた。これは,この調査船が漁船と同規模の棒受網をもって試験操業中心の調査を実施するため船体中央部に冷凍施設や魚槽のスペースを広く取っていることによるものであった。調査員の定員は5名であった。
 同乗のソ連の調査員は,主任を務めていた28歳の海洋研究者フィギルギン氏,生物担当のプランクトン研究者イワノフ氏,研究生フェシェンコ氏そして日本で顔なじみのサンマ研究者サブリン氏でいずれも太平洋漁業海洋研究所(チンロ)からきていた。
 調査水域の南千島列島沿海城に着いたのは,途中台風で遅れ25日であった。直ちに第1次調査を開始した。調査は定点における毎洋観測とプランクトン採集及び定線10マイル毎に10分ないし15分間のサンマの灯付反応の観察とからなり,それらの調査後試験操業が行われた(写真1)。海洋観測はBTとナンゼンが用いられ、灯付反応の観察は所定の用紙に海況などとともにサンマの数量と光に対する反応の状態が記入され,同時に魚探の記録がとられていた。
 こうして第1次の調査が29日に終了し,船は色丹島の斜古丹港の目と鼻の先のところに停泊した。周辺には,種々の漁船,探索船,運搬船,タンカー,貨物船等が数多く停泊しており,また港にはサンマ漁船,監視船あるいは沿岸警備艇などが出入していた。
 停泊中の31日に,サブリン氏のはからいで漁期間色丹島で調査と指導に当っているサンマ漁業学術団長カプセンコ氏,同団探査船主任ラジオーノ氏,同副主任カイノフ氏それにチンロの短期予報研究室研究員タチャーナ女史の4名の人達と短時間ではあったが懇談することができた。その際に聞いた話と後にナホトカで入手した資料により,ソ連のサンマ漁業についてごく簡単にふれておこう。
 近年のサンマ漁獲量は年平均約6万トンで極東における総漁獲量の1.5〜2.0%ではあるが,最近,需要が増えサンマの重要性が高まり年間の生産計画が8万5千トンとされている。サンマ漁業に従事する漁船はサハリン,ハバロフスク,カムチャトカなど各地方の漁業コルホーズに所属する船で,800〜900トン級の中型冷蔵トロール,300〜600トン級中型冷凍トロール,中型トロール及び中型セイナー並びに60トン級の小型船で主力は300〜600トン級の中型船である(写真2)。漁法は棒受網であるがネットホーラーがなく,集魚灯も50キロワットを使っている。操業水域は南千島列島海域で,漁獲物はほとんどが色丹島に陸揚げされ,全部が缶詰製品にされている。
 サンマ調査はチンロが担当し,調査結果は毎年の日ソの協同研究会議で報告されており,今回の調査結果もすでに第14回会議で報告され現在経過報告が印刷中であるので省略する。調査関連では,第1次調査終了後色丹島に立寄ったのも漁業基地で調査されている魚体測定や漁況に関する資料の提供を受けお互いに情報交挽をする意味合いがあったようである。
 その後,9月2日に日本海で操業中のマイワシ漁船団の母船を視察し,6日からは再び色丹島近くに戻り魚群探索中心に周辺海域で第2次調査を4日間実施した。このようにして,13日には全調査を終えナホトカに帰港した。ナホトカではノビコフ氏をはじめケーニヤ,フェデンコ,ベリャーエフ氏らの暖かい出迎えを受け16日の帰国の途につくまで,調査結果の討論や調査方法の改善についての意見交換を行ったり,近郊にあるソ連科学アカデミー極東科学センター科学調査研究所ボストークステーションを一緒に見学したりして有意義な一時を過すことができた。
(資源部第1研究室)

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