北海道から東北へ

竹内 勇



 北海道における30年余の研究生活のうち、約2/3は余市で、他は函館と釧路で過ごした ことになる。
 学生時代に北水試で、春ニシンの年鱗を調べたり、卒業論文の標本採集で、春ニシンの調査船 探海丸に乗船させて頂いた。これらのことがきっかけで、北水試に採用され、ニシン調査に従事する ことになった。学生時代の経験を生かし、春ニシンの食性研究に着手し、先ず胃内容物の観察から 始めた。残念なことには、天然における餌生物そのものの観察には手が廻らなかった。春ニシンの 漁獲量は、その後年々減少傾向をたどり、回復せぬまま今日に至っている。
 昭和27年、マッカーサー・ラインが撤廃され、戦後の北洋漁業が再開された。勧められて、 東海区水産研究所属の天鷹丸に乗船し、アリューシャン列島周辺海域の海洋調査に参加することが でき、長期航海の自信を得た。
 昭和28年から5カ年計画で、「対馬暖流開発調査」が開始され、魚卵・稚仔魚査定の 研修で、九州大学農学部の内田恵太郎教授の研究室に御世話になった。この頃、東北水研に来て、 北海道西岸におけるサンマ卵・稚仔魚の分布について発表したことがある。
 昭和32年に、日ソ漁業条約が締結されるに及んで、卵・稚仔魚の研究半ばで、再び北洋 調査に参加することになった。カムチャッカ半島から東部ベーリング海まで、母船・調査船で 出掛けた。
 昭和39年秋、日ソ漁業条約に基づく、第7次調査団に参加し、サハリン南部のサケ・マス ふ化場6カ所と太平洋漁業海洋学研究所(チンロ)サハリン支所を視察することができた。当時、 ソ連では、北海道・樺太系ニシンの保護強化と太平洋側のサンマ漁業への進出に意欲を燃やしていた ことが印象的だった。
 昭和41年から海洋部に移り、蓄積された北洋の標本整理と懸案だった餌生物自体の研究に 取り組んだ。三陸・常磐沿岸では、オキアミ漁業が成立していたので、上京の帰路女川港の魚市場に 廻って、実情を確認したことがある。
 昭和52年秋、釧路の新庁舎に移ってから、科学技術庁の「オホーツク総合研究」とそれに 引き続く「サケ・別枠研究」に参加し、餌生物の天然の分布生態に取り組んできた。
 北海道における研究生活中、北水研はじめ道立水試、北大水産学部・理学部並びに多くの 機関の方々の御厚情に、改めて御礼を申し上げる。
 今後は、過去の経験を生かし、三陸・常磐海域に来遊するサンマ、サバ、イカなどの索餌場に おける生物環境の研究に微力を尽くす所存である。関係者各位の一層の御支援と御協力を御願いする 次第である。
前 資源第3研究室長

Isamu Takeichi

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