二つの調査航海

林 小八



 昨年度,私は太平洋上を二度日付変更線を超えて航海した。
 一度は南太平洋委員会(SPC)によるカツオ標識放流調査に参加して南太平洋で約2ヶ月過ごしたことこれは現在の私の仕事には直接関係があるわけではないが,カツオー本釣漁業と標識放流を一度経験したかったことと,南太平洋の幼稚魚を見たかったからである。あともう一度は,サンマの産卵場調査で,前資源第3研究室長の小達さんが以前から北西太平洋系群サンマの産卵場の東限を確認するために切望していた「サンマを求めてハワイまで」が実現した結果である。これには,計画した肝心の卸本人が,水産庁研究課に転勤してしまい、参加なされなかったのが誠に残念である。
 これから,二度の航海についてその概要を述べる。


1.カツオ標識放流
 昭和54年11月2日秋晴れの午後,水産庁今村さん,東北水研八百さん,報国水産の人達の見送りを受け,第5初鳥丸(235トン)は,日本人乗組員9名,フィジー人乗組員6名(後にポナペから8名乗船),調査員SPC側3名,日本側2名を乗せ,久里浜より出航した。
 SPCは,昭和52年から3ヶ年計画でカツオ資源の保存と有効な利用をはかるため,南太平洋海域におけるカツオの回遊,成長,死亡等の知見を求めて,10万尾のカツオ標識を目標にその調査を実施している。日本もこの計画に参画し,すでに八百さん等が乗船調査に加わっている。今回は,11月2日〜12月14日,日本からタヒチまで日本政府が用船することになり水産庁資源課の鈴木さん,それに私がこの期間参加することになった。
 私は,カツオ漁船に乗るのははじめてだし,ましてや標識放流などはずぶの素人であり,不安であったが,さすがに調査も3年目になるとSPCの調査員,フィジー人も含めて初鳥丸の乗組員も馴れたもので私はもっぱらカメラマン役であった。
 初鳥丸にはカツオの長さが測れるように目盛りを付けたビニール張りの標識台(cradle)が4台備えつけてあり,魚が釣れるとそのままその台の上にのせ,テープレコーダーを首から下げた調査員が魚の第1背鰭後方に標識を付けながら尾叉長と標識番号をテープに吹き込んで放流していた。標識調査は日本を出発してから8日目から始まり,東カロリン諸島のポナペ島,クサイエ島周辺,キリバス周辺(旧ギルバート諸島)およびフェニックス諸島で実施され,カツオ2177尾,キハダ826尾が放流された。カツオは殆どが島の回りで釣れるため,船は朝,餌を確保してから群れを求めて島の回りを何回も回る。魚は島に手が届きそうな浅い所にも泳いでいる。釣り上げた魚のうち標識しなかった魚について,尾叉長,重量,性別,胃内容物出現種を測定し,50尾以上釣れた場合には系群検出のため採血も実施した。
 この他の重要な調査に活餌(餌科魚)調査がある。漁場に着いてからは毎晩2回,島のラグーンの中,水深約20mの所で長さ約30mの棒受網を用いて餌科魚を獲った。あらかじめ水中集魚灯で夕方から魚を集めておき,時間になると徐々に網の中に魚を誘い込みすくい上げる方法である。漁獲量は,場所,時期によって極端に異なり,ポナペ,クサイエ島ではトウゴロイワシ,インドアイノコ,ミズン等の餌科魚がバケツで約100杯獲れたがギルバート諸島では餌科魚の漁獲は殆どゼロであった。昨年は獲れたのにどうして獲れないのかとがっくりと肩を落していた主席調査員のJ.P.Hallier氏であった。カツオ釣り漁船にとって活餌がないということは致命的でお陰でフェニックス諸島からタヒチまで、カツオの大群を何回か見ながら,曳縄だけで釣るというみじめな目にもあった。日本からはるか離れた南太平洋漁場で活餌の補給の重要性をつくづく思い知らされた。12月14日に南海の楽園タヒチ・パペーテに入港,ここで下船し,真夏のクリスマス休暇中のニューカレドニア,ヌメアを経由して12月26日寒い成田に着いた。
 なお第5初鳥丸はそのまま調査続行中で,南太平洋のほぼ全域を調査航海した後,本年8月31日,清水に帰航した。今回の調査に際し,種々御協力をいただいた乗組員各位に感謝するとともに,今後の調査の成功と健康を切に祈る。
2.北西〜中央太平洋サンマ産卵場調査
 まだ石油ショックが起る前の昭和46〜48年の頃,東北水研では,5月になると春のサンマ北上期調査が常磐沖の黒潮続流に沿って沖合東経160度付近まで蒼鷹丸で実施されていた。この時期にはサンマ仔魚は黒潮の流れに沿って途切れることなく分布しており,東経160度付近でも多く分布していた。当時,この地点まで来るとやれやれやっと来たかとホッとする反面,一体サンマの稚仔の分布は,この沖合どこまで続いているのだろうかという話題になり,この沖合を調査するには,途中の補給がどうしても必要であり,そうなるとハワイという事になり,「サンマを求めてハワイヘ行こう」が一つの合い言葉になっていた。
 また昭和44年のサンマ不漁以来,中央太平洋,天皇海山周辺のサンマが試験操業の対象になり,この系群の産卵場も問題になっていた。このようなことが背景となり,昭和54年5月に照洋丸(1377トン)によって冬のサンマ産卵場調査計画書を提出した。燃料費の値上がり等の問題から一時は絶望的になったが,年末に突然復活し,あわただしい準備ののち,高橋章策さんとともに昭和55年2月14日朝,晴海埠頭を後にして,44日間の航海に出発した。
 調査は,黒潮前線に沿う形で北緯36度線を日付変更線まで東へ進み,ここから徐々に南下しながら北緯33度西経170度に達した後,3月3日ホノルルに向かった。復路は3月7日ホノルルを出航,日付変更線までハワイ諸島沿いに進み,そこから北緯32度線上を日本へ向かった。
 この時期の北太平洋は予想通り時化ており,往路東経148度〜153度は荒天のためまったく観測が出来なかった。しかし,復路は予想外に好天に恵まれ,ほぼ予定通りの調査が出来た。調査項目は30分ないし1度毎に設けた観測点で,表層曳稚魚網,及びニューストンネットによる卵稚仔の採集,DBTによる600mまでの測温,表面採水等を行った。稚仔の漂流に影響する海流を測定するGEKは観測時間が足りないため残念ながら省略した。
 日付変更線までの北側の観測線では,体長6〜90mmの範囲で仔魚,稚魚がほぼ同じ割合で出現していたが,ハワイ周辺水域では南北両観測線とも6〜30mmの範囲で,そのうち仔魚が95%を占めていた。
 南側の日本近海では6〜60mmの範囲であるが,仔魚の占める割合は70%であり産卵が続いていることを示している。今回の調査で3月にも日本からはるかに離れた東経160〜170度にも仔魚の密集域があることが明らかになった。
 またハワイ周辺水域でもサンマ仔魚の濃密域があり,この辺りが産卵水域であることを示唆している。この仔魚が中央太平洋系群に属するのかどうかはさらに検討すべきであろう。東経160度から西経170度で夜間観測中,舷側に集まって来た中央太平洋系群に属するサンマは,体長22〜26pという小さいながら殆んど全て産卵直前の魚体であり,興味を惹いた。更に詳細に資料および標本を整理するが,今後黒潮続流域におけるサンマ稚仔の分布実態および中央太平洋系群の資源動態を明らかにする必要があろう。
 なおハワイでは,ホノルル研究所でお世話になったが,特に米国200海里水域内での調査定線変更に際してはR.S.SHOMURA所長から米国の関係機関に手配をして戴き問題なく終ったことを記したい。照洋丸大村船長以下乗組員諸氏にも,あの時化の中,船の運航および観測に尽力された事を深謝する。

(資源部資源第3研究室員)

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