沿整と水研−水研の200海里問題

佐藤重勝



 水産研究所は,水産業という産業の研究所であり(海や魚や漁具の個別の研究所でなく),また国立の研究所である(企業の研究所ではない)。研究の方向は農林水産技術会議によって示唆され,研究の課題化や予算は技会事務局の御世話で事が運ばれ,何年か毎にレビューを受ける。人事と運営は,水産庁研究課が御世話をしてくれるが,行政上の要望も(技会事務局が行政部局からの重要課題集めの時に出てくることもあるが),水産庁の各課から(研究課を通じて)出てくる仕組みになっている。しかし基本的には研究の方向や課題を決めるのは研究所自体であり,現実的にも大筋は研究所側で自発的に決められたものである。その点に関する所長及び所長会議の悩みは深く,何年に一回かは技会又は水産庁幹部から直接水研の進路についての指示を仰いで肩の荷を軽くしたいという希望を抑えられないことにもなる。
 水研は国立の研究所であるから,水産業の研究総体の責任を負わねばならず,所謂公僕的意識から云っても,得意な分野の研究だけの象牙の塔にこもることで事足れりということにはならない。そこで限られた定員と予算で,何を重点的に研究すべきかは所にとって極めて重大な選択となる。また国の機関であるからには,現在起きている問題の科学的説明も国民へのサービスとして義務づけられているので,未来を切開く夢多い研究ばかり手がけるわけにはいかない。したがって,人手不足をかこつ水研の多くは,研究対象である水産業の予測される変化もごく小さくしぼり,研究分野もできるだけ広げないようにして,その中で研究課題選択における所のリーダーシップを辛うじて維持してきたと私は考えている。そして所長会議としては,一方では,予測しがたい水産業の変化に対して最も弾力性に富む基礎研究部門の充実のために,養殖研と水工研を誕生させるための協力をしてきたのであった。
 200海里問題は,これまで外延的な発展を続けてきたわが国の漁業にドラマティックな変化をもたらした。この国際的な潮流は,海洋利用の合理性を云々する手続きを乗りこえた暴力的現実として突然姿をあらわした。水研側も,わが国漁業水域内資源の機械集計等,短時日の内に対応を余儀なくされた。これには,わが国の漁業の主体が遠洋漁業と沖合漁業であり,水研の主力も亦それを調査する資源部門であることで,組識的な混迷はなかった。しかし200海里時代を期にしてクローズアップされた沿岸漁場整備開発(沿整)事業と研究の関係はそうではなかった。まさにこの問題こそ水研に投げかけられた200海里問題の典型とみることができる。すなわら,水研が組織的には殆ど準備していなかった分野が,急に重要になり,国の機関として何等かの対応をせざるを得ない局面を迎えたのである。
 沿整事業の中核技術である人工魚礁が,国の沿岸漁業振興対策の補助事業として,大きく取り上げられるようになったのは,第2次世界大戦後の昭和29年からである。その後事業量,補助率とも次第に増えてきたが,国の施策が“沿岸から沖合へ,沖合から遠洋へ”と漁業の外延的発展を指向するにつれて,人工魚礁の方は形式的なものになっていった。昭和45年頃の海洋開発ブームに乗って沿岸漁場開発の気運も起こり,沿岸漁業開発対策研究会(全漁連)によって「沿岸漁業資源・漁場開発の背景と対策」が出され,日本沿岸全域に亘る大規模培養魚礁帯の造成が提案されたときも,科学性不足と時期尚早として施策化は見送られた。しかし水産庁は,これらの要請に応えるためにも人工魚礁に関する知見をとりまとめる必要があると考えて,魚礁総合研究会を昭和48年6月に発足させ,49年5月に報告書を発表した。この報告書には,これまでの人工魚礁に対する評価の諸説を総合して,端的に次のように述べている。“人工魚礁は,もともと旧漁場の拡充あるいは新漁場の造成を目的とするものであり,一種の集魚施設ともみなされる副漁具的性格をもつものであると同時に,そこで操業される主漁業が一本釣りであったため,副次的には底びき網,あぐり網などの漁獲性能が高い漁業から漁場を保護する役割りを課せられていたといえる。しかし,一本釣り漁業は,比較的性能が低く,また商品価値の低い未成魚の漁獲を避け,専ら成魚をねらって操業するということから,魚礁に集まった未成魚は自然と保護されることになり,資源を有効に利用する上では,多少なりとも増殖効果があったと思われる。最近資源を培養することを目的とする人工魚礁の造成あるいは築磯が開発されようとしているが,従来の人工魚礁にはこのような増殖施設としての性格は明確ではなかったということができる。
 漁業政策史上画期的な意義を持つ沿革法は,前述のような資源の培養を目的とする人工魚礁は勿論のこと,もっと大きく増養殖推進のための生産基盤の整備をも加えることによって,沿岸漁業生産の計画化,合理化を飛躍的に推進しようとしたものである。そして昭和49年の同法の成立は,これまで予算的処置だけですませてきた日蔭者の栽培漁業も法律条文に登場させた。同法に基づいて作られた沿整事業計画は,昭和51〜57年の7年間で,総投資規模は2,000億円とふくれ上がった。内訳は,魚礁設置事業750億円,増養殖場造成事業1,000億円,沿岸漁場保全事業100億円,予備費100億円とされていた。ちなみに昭和54年度の水産庁予算は大よそ3,000億円,内公共が2,000億円,その内漁港1,630億円,沿整192億円であり,漁港以外は沿岸漁業構造改善事業しか見るべきものがなかった水産行政の目玉となった。
 この事業に対する水研の対応は,増養殖場造成事業については増殖部長が担当することに決められていたが,これも事業が拡大すると魚礁システムを中に含むものが多くなり,それまで水研が組織的には対応していない魚礁設置事業も加えると約半分は全く空白となり,沿整事業全体に対して水研はどのように対応すべきかは,水研所長会議として解決しなければならぬ大きな問題となった。この際云うまでもないが,魚礁がこのように大型化し人工礁漁場という呼び名でこれまで沿岸漁協の縄ばりであった共同漁業権漁場の外をめざすとき,既に既成の増殖部の縄ばりを越えてたし,沿岸と資源管理に眼を向けはじめてきた資源部にしても,この貴任を負うほどの転身も見せようはずはなかった。したがって,この問題は増殖部か資源部かどららの部に担当してもらうかということではなく,水研全体として責任をどう考えるかというように最初から提起された。
 特に200海里時代に入ってからは,将来の漁業の発展の舞台も日本近海に向けられ,沿整事業の可否をめぐって“魚礁亡国論”まで出されると共に,各道府県も熱心にこの事業に取組むようになってきた。そうなると,これまでの歴史はどうあれ,国の水研がこの大事業の研究面の責任を数少ないタレントに任せておいてよいのかという議論も起ってくる。それやこれやで,2年越しの行政当局と所長会議との折衝の結果,昭和53年10月末の所長会議でやっと沿整事業への水研の関与が決まった。それに基づいて今年1月18日に北方地域の検討会議という名称の勉強会が,北水研,東北水研,日水研が札幌に集まって開かれた。その会に参加した北海道水産部振興計画課長の話では,同課の予算の9割までが沿整関係であるという。もしこれに水研が不参加という状態を続けるならば,どうして水試との地域での共通の研究基盤を維持していけるのだろうかと,背筋に冷たいものを覚えたのは私だけではなかったであろう。続いて1月末には,沿整中央検討会準備会が,そして4月13日にはとうとう第1回の沿整中央検討会が開かれた。水研が何をすることができるかは明らかではないが,少なくとも国の研究機関として責任を果たそうとする構えだけはできた。
 中央検討会には,北の代表として東北水研所長,西は南西水研所長,専門水研は水工研所長,窓口として東海水研所長が出席して,担当課である開発課長及び研究課長,必要に応じて漁場保全課長と共に協議することになっている。第1回会議では,各事業の担当も確認した。すなわち増養殖場造成事業関係はこれまで通り増殖部長が担当する。海域総合開発事業はこれまで通り北水研所長が所長会議を代表して検討会に出席する。人工礁漁場造成事業関係は企画連絡室長を窓口として対応する。ともかくこれでやっと沿整事業に水研が組織として対応することになった。このように構えはできたが,われわれの研究蓄積はあまりに少なく対象は大きい。折しも次期沿整事業の規模は8千億円乃至1兆円とのよび声もでてきた。しかし,できないことはできないし,できるところで研究者らしく素直な対応を先行させるより仕方がないと思う。当面は既に大きな仕事をかかえて悩んでいる県行政と水試の良い相談相手となることからはじめるべきであろう。研究自体を水研の中でどうとり入れるか,ハード部分や基礎研究は水工研が行なうにしてもそれだけですますのか,等々本格的な課題の検討はこれからである。組織としての粘り強い取組みを期待したい。
(所長)

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