アワビの種苗生産技術について

菅野 尚


 村山(1935)によるマダカの初期発生の観察にはじまり、次いで猪野(1952)のクロアワビの初期生活史の画期的な研究を始点とするアワビ属の人工種苗生産の研究は、第一次沿岸漁業構造改善事業を背景に、1961年から5ヶ年に亘って全国的に行われた試験研究機関での増養殖技術確立の試験研究を経て、産業対応の種苗生産事業にその第一歩をふみだした。以降今日に至る十有余年の間に、各地に人工種苗生産施設が建設され、技術開発の努力がたゆまなく続けられているが、技術としての安定性と科学的な裏付けの不足に、多くの問題が残されてきた。そして再び時代の変化にともなって、大規模な種苗生産が要求される現在に至って、アワビの種苗生産技術がどのように今後展開していくのかに、大きな関心と期待が寄せられている。
 昨春、増殖部魚介類研究室の菊地室長が、1961年から1974年に亘って行った一連の人工種苗開発研究、即ち、技術的な内容としては、
(1) 初期稚貝の採苗器として餌料となる附着珪藻の繁殖できる附着面を多く備えた透明な波板を組み合わせた採苗器の考案(菊地1963,'64)、
(2) 採卵母貝の育成方法(菊地・浮,1974)、
(3) 紫外線照射海水による産卵誘発法(菊地・浮, 1974)
等の研究で、農林省職員功績者として農林大臣賞を受賞したが、この基礎研究が、今後の種苗生産の技術開発の基礎となると私は考えている。なお、個々の研究内容については、既に日本水産学会年会での口頭発表や東北水研報告、水産増殖などに報告されており、また新しい技術の概要についても農林省広報1974年6月号に報ぜられているので、参考としていただきたい。
 さて、私がこの研究が今後の種苗生産技術開発の基礎となると考える第一点は、産卵時刻を人為的に調節することのできる技術の基礎が明らかにされたことである。菊地は農林省広報で「アワビの性成熟と温度との数量関係が解明され、飼育開始時期と水温を組み合わせることによって、周年採卵が可能な母貝の育成技術が確立され、さらに紫外線照射海水が、これまでの実験結果では、産卵開始時刻を数十分の範囲で予測し、90%以上の確率で採卵が可能な安定した結果が認められる」と述べているが、実用的にも、この基礎研究から産卵時刻を人間が活動する昼間の一定時刻内に設定することが可能である。これまでの種苗生産では、天然の成熟母貝や飼育条件が十分に満たされない蓄養的飼育下で成熟した母貝を用い、温度刺激、干出刺激等の刺激方法に多くの工夫をこらして産卵誘発を行なっても、確実に昼間の必要な時刻に産卵を誘起する例は極く少ないのが現実である。確実に設定された時間に産卵が誘起されるという技術の確立は、その後に続く授精、洗卵等の処理を確実にするばかりでなく作業を行なう労働力の配分や研究面で、はかりしれない大きなメリットがある。将に種苗生産技術の工程化の第一歩と言うべきであろう。陸上の畜産分野では、夜間のお産を昼間に変えることのできない不便さをなげいていると聞くが、アワビの種苗生産で昼間に確実に産卵を誘起することができることが実証された時の若い研究者の『夜から開放される』という喜びの一言が、この基礎技術のすばらしさを表わしている。
 第二の点は、透明な波板を組み合わせた採苗器の開発である。種苗生産技術開発の初期におけるこの塩化ビニール製の波板採苗器の発明は、画期的な出来ごとであった。しかしその後、多くの研究機関や採苗場で各種の採苗器が用いられ、また飼育技術が定形化されていないために、この透明な波板を組み合わせた採苗器の意義は見失われがちである。しかし珪藻を餌料とするアワビの稚貝の飼育技術と大規模な種苗生産の工程化に、この波板採苗器は大きな役割りをはたすことになろう。この採苗器は現在、極めて大きな問題となっている初期減粍の問題と稚貝の能率的な飼育方法の解決の一つの大きな鍵となると考えている。
 種苗生産技術開発の重点的な内容を簡単に述べたが、最後にこの研究の発展は研究者とそれを取りまく組織と予算にあることを強調しておきたい。種苗生産の技術開発研究と一口に言っても、生物に興味をもち、種苗生産の意味をそれなりに自身の研究観、人生観のなかで位置づけた研究者が、長い年月をその研究に打ち込むことのできる研究環境が整備されていなければ、その発展はない。当増殖部のアワビの種苗生産の基礎研究は多くの関係者の努力で当時の予算にして約1億円をかけて設備した生物実験棟と、経常研究費の大部を投入し、そして実験条件を維持するために、ポンプ、電気系統、温度調節などを整備し続けた裏方の努力によって、はじめて陽の目をみるようになったことを付け加えておきたい。
(増殖部長)

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