偶然の発見
『幸福の星は、我々の囲りをいつも、いっぱい飛び廻っている。それをつかまえることができるのは研究者の勘というものだ』とは、当所増殖部魚介類研究室の菊地省吾さんの吐いた名句である。過去十数年間に亘ってアワビの種苗生産技術の開発にとりくんできた彼が、アワビ稚貝の初期餌料として重要な附着性珪藻の培養を行なうために作製した無菌培養装置を、アワビの周年採卵技術開発研究に転用して、同室の浮 永久さんと産卵誘発実験を連日のように繰り返していた三年前のある日、突然のようにそれまで順調に放卵・放精現象を示していた成熟母貝が与えられた産卵誘発刺激に反応しなくなったため、その原因追及を実験に用いた容器の毒性、水質の異常、漏過海水の配管系統の異常、電気系統の異常をチェックして、結局装置に組み込まれている紫外線殺菌灯のスイッチが切れている以外の異常は発見できなかった事から、その後、数ケ月の日時をついやして産卵誘発に関係しているのは紫外線を照射した海水であることを実証した時に、私に言った言葉である。
偶然のいたづらが紫外線殺菌灯のスイッチを切らなければ、紫外線照射海水とアワビの産卵現象の誘起との関係の端初となった事象は起きなかったろうし、またこの偶然の機会に、それが大発見であると気がつくことのできる人間は極めて稀であろう。自然の法則を偶然何かの機会に発見するというのは、過去に蓄積された教養に邪魔されがちな凡人にはできることでとではない。まさか紫外線がということで、その意義を見抜くようなことは、自然の現象に対して素直になれない愚生にはとうていできることではないと感心したものである。
アワビについて菊地・浮さんの研究チームは、ホタテガイの産卵誘発にも紫外線照射海水が効力を発揮することを実証し、その結果は研究報告に印刷中である。この発見は海水の性質や貝類の成熟と放卵・放精現象に新たな問題点と方法論を提示している。また種苗生産技術に対しても、極めて重要な基礎知見を明らかにしている。数年前、青森県むつ湾でホタテガイ養殖の現在の発展の基礎となったタマネギ袋で採苗基質をつつむ天然採苗技術が開発されたが、これも、自然の生物現象を素直に見つめていた一漁業者の偶然の幸福の星の発見であったにちがいない。
生産の技術体系
体系という言葉のもつ重要な意味は、判るようでなかなか判らないものである。問題にぶつかってはじめてその問題は体系にあることをおしえられることがしばしばである。今日、新聞やテレビのニュースをにぎあわす諸問題も、まさに体系の問題であるが、水産の世界においても体系が問題になることが多くなっている。ホタテガイの生産の最近の一例をとっても、貝殻の処理が現在の技術体系のあり方にゆさぶりをかけはじめている。ホタテガイの増養殖生産が著るしい伸びを示すに従って、その生産量の約二分の一を占める貝殻の処理が大問題になる。かつて一万トン以下の生産に苦悩していた当時に、ホタテガイの貝殻が種ガキの採苗器の原盤として需要に追いつかず、海岸や畠を堀おこし、古い貝殻をひろいだして原盤用に供給していた頃には、まったく考えもみなかった現象に当面しつつある。
ホタテガイの増養殖生産が発展するに従って、生産の技術体系もまた新しいものが必要となってくる。その過程で採苗・養成技術、貝殻処理、加工技術はもとより、漁場の生産力、漁業権漁場の行使方法、漁業協同組合の役割り等々、自然科学サイドからの生産技術体系の変改のみならず、経済・社会の諸要因もまた問題化の対象となる。
研究者としての我々は、生産の技術体系の組み立ての基本が何であるかを認識し、常日頃の基礎研究の内容を充実することによって、科学的な生産の技術体系の確立に寄与することが可能なはずである。ホタテガイの餌料、栄養、病気、異常斃死、漁場環境などについての基礎知見は、現在あまりにも少ない。幸福の星を発見できるかどうかも気になるところである。とにかく、『ホタテガイは人間を変えつつある』というのが私の実感である。