カツオとその漁場について
笠原康平
毎年春になると、日本近海の太平洋岸一帯にカツオが姿を現わす。このカツオは初ガツオの名で、古くから初夏の味覚の代表として親しまれている。しかし最近ではこういった季節感がうすれ、1年を通じてカツオの水揚げを見るようになった。今までは概ね日本の周辺だけに限られていたカツオ漁場が、こゝ数年の間に飛躍的に拡大され、現在では赤道を越えてニューギニアの北岸近くまで及んでいるからである。一般に亜熱帯以南で漁獲されるカツオを南方ガツオと呼び、日本の近海で漁獲されたものと区別している。もっともカツオそのものに違いがあるわけではなく、漁獲された場所が南方であるというだけの区別であるが、資源的にはかなり違った意味を持っている。魚の大きさが近海のものは40〜50pの中型魚を中心に比較的そろっているのに対し、南方ガツオは大・中・小の魚体が雑然とまじりあっており、そのうちでも特に60p以上の大型魚の比率が多くなっている。これは日本近海に来遊してくる群が、主として2才魚の未だ成熟していない、いわば少年期のカツオで構成されているのに対し、南方ガツオの方は近海に回遊してくる以前の幼年魚や、既に回遊を終えて南に帰ってきた青年魚、壮年魚、さらには老年魚まで含んでいるからである。南方海域の、中でも赤道周辺はカツオの主産卵域とみなされており、カツオにとっては分布の中心ともいえる場所である。こゝでは、あらゆる大きさのカツオが年中棲息している。そのうちの一部が、しかもその生涯のある限られた時期にだけ、分布の縁辺部に相当する日本近海やアメリカの太平洋岸に回遊してくることになる。これがいわゆる近海ガツオとして、春から秋にかけて日本近海の各漁場で漁獲されることになる。この回遊群の他に、東西諸島や伊豆・小笠原諸島周辺のように暖流系の水が瀬や礁の上を流れている付近には、瀬付きと呼ばれる群が殆んど周年にわたって生息している。この瀬付群は回遊群よりやゝ大きい3才魚とみられる魚群が主体となっている。しかも春から夏にかけてはかなり成熟の進んだ魚体を混じており、従ってこの付近でも産卵が行なわれることは確実とみられる。しかしこの瀬付群は量的には余り多くなく、近海漁場での漁獲の主対象はやはり南から北上してきた回遊群である。つまりこの回遊群の動向が近海漁場の漁況を左右するきめてとなるわけで、カツオの漁況を予測するに当っては、先ずこの回遊群がどのような経路を通って、何処にやってくるかをつきとめることが必要になる。そのための調査として東北水研では、各県水産試験場の協力を得て現在日本周辺や南方海域の各漁場でカツオの標識放流を大規模に実施している。標識魚の再捕率は年や漁場によってかなりまちまちの値がでているが、日本近海では2〜5%程度となっている。各漁場で実施した標識放流のうち、昭和44年3月上旬に台湾東方水域で行なった放流の結果をみると(第1図参照)、3・4月中は主として薩南の沖縄・トカラ諸島周辺で再捕されているが、5・6月になると紀南から伊豆にかけて、さらに7月以降は東北海域でそれぞれ再捕されている。この動きは後で述べる漁場の時期的推移とも概ね一致しており、3月上旬頃台湾東方水域に入ってきた魚群が、2・3ケ月後には紀南から伊豆に、4ケ月後には東北海域に移行してくることを示している。もっとも東北までやってくる魚群はこれら回遊群のうちの極く一部で、その多くはそのまま薩南に、あるいは途中の紀南・伊豆の漁場にとどまるようである。さらにこの年の5月下旬から6月上旬にかけて、伊豆諸島西側の水域で行なった放流では、再捕魚の一部は東北海域で得ているが、その大部分は紀南から四国・薩南にかけての沿岸水域で漁獲されている。即ちこの水域の魚群はそのまま北上して東北海域に移行する群と、沿岸沿いに南下する群の2つに分れることを示している。なお沿岸沿いに南下した群の再捕位置をみると(第2図参照)、放流後30日ぐらいの間は放流地点よりやゝ西よりの熊野灘・遠州灘一帯に分布しているが、30〜50日後は潮ノ岬から四国沿岸に、さらに60日以降になると四国沿岸から薩南にかけての水域に移動してくることがわかる。例年8月以降になると四国沖から薩南にかけての漁場では、いわゆる下りガツオ(戻りガツオともいう)によって漁況が再び活気をみせてくるというが、これは上述の回遊がほぼ定型的な形で毎年行なわれていることを示すものと思われる。従って回遊経路の途上にある伊豆・紀南の漁場では、漁期半ばにおいて北上する群、南下する群が相交錯することになる。前記の台湾東方海域で行なった放流結果でも、漁期後半の8月以降薩南海域での再捕が再び増加しているが、この再捕魚のなかには一時北上して再びこの海域に戻ってきたものもかなり含まれているとみられる。なお北上の経路としては、この他マリアナ・小笠原列島線の東側を通って伊豆・紀南海域や東北海域に至るもの、あるいは高鵬礁付近から北上して紀南や四国沖に至るもの等が想定されているが、いまのところ仮説の段階をでないようである。しかし漁場の時期的推移や、東北海域での漁獲量等からみて、かなり多量の魚群が薩南以外の経路からも北上してくることは間違いないようである。
さて日本近海のカツオ漁場は、黒潮の流域に沿って太平洋沿岸一帯にほゞ連続した形で形成される。(第3図参照)は昭和44年度カツオ竿釣漁業漁場別統計調査結果(水産庁調査研究部刊行)に基づいて、月別に緯度、経度1度区画毎のカツオ漁獲量を示したものである。つまりこの図は、月々の大まかな漁場範囲を表わすことになる。もっともその時々の海況や魚群、漁船等の状態によって漁場範囲はさまざまに変化するので、毎年この通りの経過を示すとは限らないが、この図が一応近海カツオ漁場の時期的推移を知る目安にはなり得ると考える。初春(2月下旬から3月上旬)の近海漁場にまず最初に出現するのは、体長55〜60pの大型魚(3才魚)である。このカツオは瀬付群の一部で、毎年来遊群のさきがけとして初漁期に姿を現わし、短期間ではあるが沿岸のカツオ漁船(引縄船・竿釣船)の漁獲対象となっている。4月から5月にかけては回遊群の主群である中型魚(2才魚、体長40p前後)がトカラ諸島や伊豆諸島の周辺に出現し、この頃から日本近海は本格的なカツオ漁が始まる。6月に入ると間もなくこれら海域の漁況は次第に低調になり、替って東北海域の黒潮前線周辺が活況をみせてくる。7月以降水温の急上昇に伴ってこの海域では漁場が急速に北上し、最も水温の高くなる9月には主漁場が北韓42度付近に達する。初漁期に40p前後だった2才魚はこの頃になると50p前後に達し、脂も十分のってまるまる肥ってくる。なお第3図に、全国海況旬報(気象庁)より求めた20℃等温線を併せて示した。これをみると漁場の推移は、9月頃まではこの20℃等温線の動きと密接に関連していることがわかる。従ってこの回遊は単なる移動ではなく、適温水域を追っての生活圏の拡大とみてよいだろう。10月に入ると各漁場の魚群は次第に散逸、あるいは南下して漁場外に去り、11月初旬には僅かに東北の沖合や、伊豆・薩南の一部に魚群を認めるのみとなる。南下するカツオは足が早く、しかも水面に現われることが少いため、その行動の詳細はよくわからない。11月中旬になると近海に魚群を殆んど認めず、この年のカツオ漁は完全に終漁となる。以上が大まかにみた日本近海の漁況の推移である。
次に近年にわかにその規模を拡大させてきた南方カツオ漁について、その発展の足どりを追ってみよう。この海域は、戦前にあっては主としてカロリン諸島(トラック島・パラオ島等)を基地として操業され、そめ最盛期(昭和12〜15年)には年間3万トンに及ぶ漁獲をあげたといわれる。戦後本土に基地を置く漁船によってまず小笠原列島周辺の漁場から開拓が姶まったが、この当時は近海のカツオ漁不振の際の補いとして、あるいは休漁期間における裏作の意味で操業されたに過ぎなかったようである。その後開拓が進むに従ってこの海域のカツオ漁業における比重は次第に増大し、その漁獲量も日本におけるカツオ総漁獲量の40〜60%を占めるに至ったとみられる。1航海当り漁獲量も毎年増加傾向を辿っているが、その反面漁場の遠隔化と操業日数の増大が漁船大型化を強いる結果ともなっている。現在この海域では、鹿児島・三重・静岡・茨城・宮城等各県の漁船がそれぞれ情報を交換しながら組織的に操業しているが、その隻数・漁獲量等の正確な数字は不明である。しかしこの海域の操業船の大部分は焼津港に入港し、そこで漁獲物を陸湯げするといわれているので、焼津港での入港船の調査によって、この海域における操業の実態をある程度推定することができるのではないかと考える。東北水研焼津分室ではカツオ資源研究の一環として、焼津港に入港したカツオ漁船の大部分に対して、漁況聞きとり調査および漁獲物の体長測定を実施している。これらの資料からこの海域の漁況経過のあらましを知ることができよう。まず焼津入港の南方海域操業船について、年度別(こゝでは資料とりまとめの便宜上5月から翌年4月までを1つの年度として区分)にその隻数・陸揚量・1航海当り平均陸揚量を求めて(第4図参照)に示した。これをみると隻数は40年・42年の600隻をピークにその後漸減の傾向にあったが、46年に再び急増して700隻に達している。41年の減少は近海のカツオ漁が未曽有の豊漁のため、また43年以降の漸減はこの頃から始まった漁場の拡大で航海日数が増大し、操業船1隻当りの航海数が減少したためと思われる。46年の急増はこの年近海のカツオ漁が不振を極めたので漁期半ばにして多数のカツオ漁船がこの海域に殺到したためであろう。年陸揚量は43年頃までは入港船隻数の動きに応じて増減していたが、44年以降飛躍的に増大して46年には5万トンを越えている。これに伴って1航海当り陸揚量も増大し、39〜43年頃は40トン前後の値だったのが、44年には50トン台、45年には60トン台、46年には70トン台と年々上昇を続けている。もっともこの上昇は後述する通り新漁場を求めてその操業範囲を南方および東方に拡げたことと、操業日数の増大が大きく影響しているものと思われる。なおこの海域における漁場の年々の推移をみるため、5月〜10月と11月〜翌年4月の2期に分けて、昭和39年・44年・46年の各年度毎にその漁場範囲を(第5図参照)に示した。5月〜10月の間はもっぱらマリアナ列島線沿いの瀬漁場に漁船の集中をみていたのが、42年頃から10°N以南の海域にも一部の漁船が進出、44年以降はこれが定着して従来からの瀬漁場に加え、4°〜8°N、140°〜155°Eのカロリン諸島周辺水域が新たに漁場となった。またこの年の6月下旬、小笠原諸島が返還されたのを契機として、20°N線を中心に150°〜155°Eにかけての海域も、カツオ漁場として新たに登場している。11月頃から翌年4月頃までは、漁場が瀬から離れて外洋に拡がる時期である。しかも日本近海のカツオ漁を切り上げた漁船がこの海域に新たに加わってくるため、操業隻数、漁獲量ともに飛躍的に増大してくることになる。この期間の漁場の推移を年毎に追ってみると、41年頃までは主としてマリアナ列島線西側の10°〜20°N、130°〜145°Eの海域を操業していたのが、42年頃から急に南に延び、さらに44年には西にも拡がって、10°N以北では127°〜140°E、10°N以南では135°〜158°Eの海域が漁場となっている。46年になると10°N以北での操業は殆んどなくなり、大部分の漁船は10°N以南まで南下して、5°N線を中心に135°Eから174°Eにわたる広大な海域で操業している。以上の通りこの海域での漁場の形成は、時間的にも空間的にも甚だ不安定な状態にあり、年々新たな漁場が出現しまた消滅する流動的状態にあるとみてよいだろう。従って漁船は、次々と新たな魚群を求めて広大な海域を右往左往し、いわば行き当りばったり式の操業にならざるを得ないことになる。これはこの海域での魚群の移動.回遊型態や、漁場形成に対応する海況その他の条件が未だ明らかにされていないためで、これらの問題の解明がこの海域の豊富な資源を十分利用し、この漁業を安定化させることに連がるものと考える。
Kouhei Kasahara
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