ナホトカ航路雑記

小達 繁


 横浜〜ナホトカ航路もこれで2回目の旅である。本年度行なわれた第5回日ソ・サンマ会議はソ連側の当番なので、チンロ(ウラヂヴオストック太平洋漁業海洋学研究所)でも見たいという我々の願いも空しく、再びナホトカ市で開催されることになり、日本側の代表、同行4人(榎本、福島、斉藤の各氏と筆者)、9月26日に横浜を出港した。折しも前日の25日には、田中首相一行が北京を訪問し、日中国交回復ムードー杯という時であったから、この会議の存在など知らるべくもなかったが、日・ソの国際関係が、どの様な形で漁業問題を中心とした日ソ関係に反映して来るのか、一沫の不安もよぎらざるを得なかった。
 1962年にソ連極東海運によって横浜〜ナホトカ間に定期航路が開設されて以来、5,000トン級の客船バイカルやハバロフスクの名は馴染み深いものであろう。この10年はどの間に、この航路を利用する旅行者は年々増大し、近年では年間4万人に達すると云われ、水産関係でも多数の人々がお世話になった筈で、今更とり立てて述べる程のこともない。しかし船客の半数以上を日本人が占め、我々の目には異様な風態としか映らないヒッピーまがいの若者が多いのには驚かざるを得ない。特に夏季休暇のシーズンともなれば、北海道で有名なカニ族スタイルの学生達で混雑する。シベリヤ鉄道経由でヨーロッパヘ行くのである。これに各種ツーリストの募集に応じて休暇をとって参加したOLも多く、商店主風の夫婦連れやおばちゃん達も加わって、国内旅行の延長の様なものとなる。例の旗を立てた案内人に率いられて、面倒な乗船手続きも終ると、初めはしおらしく注意事項をノートしたり自己紹介なぞしているが、2日の航程でナホトカに着く頃には、気の合った幾つかのグループが出来上るという次第、日本人の海外旅行もGNP第2位の恩恵か、レジャーのはけ口が共産圏諸国にまで及んで来ているのである。それにソ連側も天然の観光資源を利用して外貨を獲得しようという政策らしく、観光旅券の発給には寛大で、むしろ公用旅券の方が厄介である。前にはビザが出なくてとうとう1便遅れた経験がある。何れにしても大正末期から昭和1桁組の働き蜂とさせられている我々にとって、国内は勿論ここまで来てまで疎外感を味わう羽目になろうとは情けない。
 尤も、東京〜モスクワ間のジェット機直行便の運賃が約40万円かかるのに比べて、ナホトカ航路〜シベリヤ鉄道〜ソ連国内航空を利用したツーリストの募集は、25〜30万円で、キエフ或いはレーニングラードの旅行が楽しめるから、えらく割安である。雄大な自然の景観に感激し、お金が蓄ったらもう一度行きたいという脱職場組のOLも居た程だから、若者達にとって魅力のあるコースでもあるらしい。
 ともあれ面倒な通関や乗船手続きさえしなければ、我々にとっては見慣れた三陸沿岸の船旅は、小さな調査船と違ってホテル並みのキャビン、観測の仕事もなく、いとも快適な2日である。ほど良く三陸から津軽海峡附近を夜間通過すれば、窓外に光るイカ釣漁船やサンマ漁船の無数の集魚灯、不夜城の中を突走ることになる。中にはサーチライトを振りかざして接近して来る漁船もあり、サンマ会議への往復に相応しい情景である。そして今夜の漁況を案じながらも、満員の客の騒々しさを気にさえしなければ、船内バーで口にする関税無しの高級酒の味も又格別というところ。
 航程900浬、53時間の船旅が終ると、欧亜にまたがる巨大な国ソ連邦極東の一角にたどり着く。ナホトカは1859年、ソ連探検船アメリカ号によって発見された天然の良港である。ナホトカとは、同船がシケのため漂着して偶然に見つけた ゛掘り出しもの゛という意味だそうである。広いアメリカ湾の奥部に位置し、丁度仙台湾と塩釜港の関係にあると思えば良い(但し水道は殆んどなく連続している)。湾北部のアメリカ峠からの眺望も又素晴しく、湾岸に佇立するブラート(兄)、セストラー(妹)と呼ばれるボタ山の様な2つの山も印象的であるが、ソ連に来て最初に着く湾がアメリカとはいささか妙な気がする。近年日ソ対岸貿易の発展で、広大な湾内には常時15〜16隻の日本貨物船が停泊し、ナホトカ港入口の商港岸壁では、石炭・木材の荷役が盛んに行なわれている。又市内にある国際海員クラブを訪れる船員も多いと聞く。商港に続いて定期船繋留岸壁、と云っても300mほどの低い波止場があるだけで、5,000トン級のハバロフスクでさえ、いとも簡単に接岸し、乗客はタラップで降りるという仕掛け。ここの一部は港内連結船が使用している。広場の北側には待合室・税関等の大きな平屋の建物が2つ、その裏側がナホトカ太平洋駅。鉄道を利用してハバロフスク方面へ行く旅行者は、徒歩で5分もかからないこの間を、専用バスで乗継ぎする。従ってナホトカ市内への旅行者は限られている。
 波止場の対岸は造船・修理工場群で、1,000〜3,000トン級のスターントロールや冷凍運搬船が多数繋留されていた。波止場に続く湾奥部が漁港である。ナホトカ漁港は、1951年に操業開始され、現在、数百mの岸壁で、10隻以上の大型漁船の同時荷役が可能の様に設備されている。岸壁に沿って10トン前後の大型クレーン(一部東ドイツ製)が20数基設置されていて、直接引込み線の冷凍貨車へ積込むと同時に、冷蔵庫の2階へも搬入出来る。従って日本で見られる様な魚市場風景はない。広大な海洋における生産物である各種魚類を、機械的に収穫して持帰り、貨物として陸揚げするだけで、漁港とは云っても冷凍・塩蔵・缶詰等の製品を内陸部へ送る中継基地である。又この附近では極く沿岸の小漁業はない様であるから鮮魚は見られない。従って汚廃水による湾の汚染は殆んどなく、海水は綺麗である。それでも岸壁で糸を垂れる釣人を見かけるから、小魚は棲息しているらしい。
 漁港岸壁の長さと接岸可能船舶数、冷蔵庫数、貨車数等から類推して、林立する大型クレーンはいかにも過剰設備の様に見えたのは素人の判断にすぎないか。漁港区内の空地に袋詰めされた岩塩の山が野慎みのまま、2年前と同じ状態であったのも印象的である。尚岸壁中央部には冷蔵庫と並んで、この地方最大のオートメ化された製缶工場があり、直接工船へ空缶を供給している。
 漁業に関する会議のこともあって、ソ連側の地元接待役は専らここの漁港長代理べリヤーコフ氏で、会場準備、案内、自動車の手配等、いろいろお世話になった方も多いと思う。前回の会議は漁港事務所2階で行なわれたが、今回は鉄道と大通りを隔てた丘側にある市民文化会館の小会議室が会場にあてられた。ここは数少ない名所?の1つらしく、前にも来たことがあり、市民図書室と各種サークルの催しが行なわれるところである。会議は勿論チンロの研究者とダリルィバ(極東漁業総局)の漁業担当官が中心であるが、この他形式的には在ナホトカのソ連外交代表、漁港長等がメンバーとなっている。チンロの連中はウラヂオからバスで、ダリルィバのギダノフ氏は自動車で来たとのこと。彼等とは宿舎が同じであったのも何かと好都合であった。
 宿舎は市街地北端に新しく建てられたホテルナホトカ。それまでは当市唯一のホテルであったヴォストークのすぐ近くである。2年前に建築され、当時も一部は使用していたので、既に新装成ったかと思っていたら、未だ壁・天井の塗り替えや給水工事等が行われていた。この様な建物の外郭の建設は早いが、内装工事は長びくらしい。戸棚・ソファー等の調度品は日本製とのこと。1階はロビーに続いてレストランで、ホテル ヴォストークから移って来た主任のアンナおばさんも懐しい1人。
 ここから会場まで、漁港事務所のマイクロバス2台に分乗し、午前と午後の2回毎日往復した。湾の岸に沿って走るナホードキンスキー大通りを直行して15分はかかる。2年前に比べると自動車の数も増えた様で、乗用車が目につき、大分使い込んだと見られる大型トラックも多数活動している。それでも交通事情は日本とは比ぶべくもなく、要所には交通信号もあるが、自動車優位の感じで、我々の若い運転手君もスピードには興味があるらしく、ボデーをきしませて良く走って呉れた。
 在ナホトカ日本人は、総領事館員(4名)とその家族数名程度であるが、ホテルには貿易商社の人達が数名は滞在している。領事館ではいろいろお世話になった。食生活の違いに悩む我々のために、日本料理を準備されて元気を恢復したり、日中ソ関係が流動的な折から、意見交換やら、ソ連・東欧諸国に長く滞在して得た経験を聞かされたり、大変参考になった。しかしホテル滞在の商社マン達は、円切上げ以後対ソ商談が難航しているらしく、時折夜半に至る放歌高吟には恐れ入ったものである。在外日本人の生態については、先刻週刊誌等で承知してはいたが、実際の場面に出遭うと、どこへともなく恐縮する次第。
 10日余り滞在していた10月上旬の天候は予想していたより快適で、殆んど日本北部のそれと変りなかった。又会議の合間に市内で観る場所とてない街であるから、休日に招待される郊外ピクニックも楽しい行事の1つであろう。前には港内連絡船で対岸の半島に行ったが、今度はアメリカ峠を越えて、郊外約40qの小川までドライブし、魚釣りと野外パーティ。ソ側団長のアューシン氏は、1人で川辺にキャンプして釣りを楽しむほど好き らしく、外交代表の方も仲々の玄人である。日本側は榎本さんと福島氏、1時間ばかりの間に、10〜15pのヤマベ20数尾とガリャーン(アブラハヤ)数尾の釣果。勿論これだけでは総勢10数名の食用にはならないので、用意されて来た遠洋物の魚と馬鈴薯のスープの大鍋を囲んで、ウォッカの乾盃。そして太陽と強いアルコールで体内外が火照って来たところで、日ソ対抗サッカー試合(但し数人の応援を得て)。普段でさえ運動不足の我々は親善試合のせいか張り切り過ぎて、翌日は日ソ双方合意の上午前中休養と相成った。帰国後足腰の痛みに堪え兼ねていたら、偶々12月に東京でアューシン氏と再会した際、彼もそうであった由を聞いて一安心。身体強健も国際会議の要件とは、誰かからも聞いたことではあったが・・。
 思い出すままに滞在中の余聞を交えて書き連ねたが、会議そのものは仲々ハードスケジュールである。研究体制の相違に基づく、調査研究に対する取組み方の差、資源評価や方法論批判には厳しいものがある。日ソ・サンマ会議も第5回目を終って、単なる協同調査やシンポジウムから発展して、資源の有効利用と共に保護対策も強調されている。ソ連側としてはサンマの協同研究を基盤にして、サバ・スルメイカ等の回遊性浮魚への意欲も充分と見られる。近年沿岸水域の魚族資源に関する国際間題は遂次増加の傾向にある。資源に対する科学的共通認識が先行すれば、漁業調整もやり易いことは確かであるが、現実は仲々その様には運ばない。国際漁業の問題は遠い外国におけるばかりでなく、正に我々の身近かに起っているのである。
 サンマ会議の詳細については、日ソ・サンマ協同研究会議経過報告(1〜5)、東北水研ニュース4にも書いてあるので参照して戴き度い。
Shigeru Odate

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